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タグ:雲仙普賢岳

 噴火により発生した高温の火砕流は小学校を襲った。


雲仙普賢岳1991

 1990年(平成2年)に198年ぶりに活動を再開した雲仙普賢岳は、多くの被害をもたらした。ある程度の年齢の方であれば、火砕流が報道関係者を襲い43名の死者・行方不明者をだした映像が記憶に残っているかと思う。この噴火活動は1995年(平成7年)まで4年半続き、島原市・深江町(現・南島原市)に大きな被害をもたらした。
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 写真の大火砕流は43名の死者・行方不明者がでた時のもの。この時はまだ学校が運営されており、避難していない状態だった。その後、火砕流による被害の教訓から立ち入りが厳しい警戒区域が設定されて、その後の人的被害は1名のみとなっている。
 1991年(平成3年)9月15日18時57分。最大規模の火砕流が発生。火砕流は水無川沿いに流下していったが、その際に発生している熱風(火砕サージ)が大野木場小学校を襲った。


全焼した大野木場小学校

 火砕サージにより高温のガスが大野木場小学校を襲った。
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 高温というのは想像つかないかもしれない。
 おおよそ数百℃。
 全てが焼け焦げる温度。
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 当然校舎は全焼した。校舎内を見ると床が全てなくなっている。
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 全てのガラスが失われているが、これは高温というよりも熱風の勢いで割れたのだろうか。
 (ガラスが溶けるには1000℃以上必要なはず)
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 理科室の様子。
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 机や床は全て燃えてしまった。
 あるのは水道と流し台だけ。
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 どれだけ高温の熱風が襲ってきたのか。その痕跡が痛々しい。
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 場所によってはガラスが残っているところもあった。
 これは火砕サージの進入方向などが影響しているのだろう。


校庭も高温にさらされた

 校舎が高温の火砕サージによって全焼したが、当然校庭にあるものも高温にさらされた。
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 とりあえず戦前製の二宮金次郎像は無事。
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 鉄棒はぐにゃりと曲がっている。
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 これほど曲がるとは、温度的には1000℃近い火砕サージだったのかもしれない。
 先ほどのガラスも1000℃に近い温度になれば柔らかくなって強度が落ちていたのかもしれない。
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 そして、砂場の縁にある木は焼け焦げていた。
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 焼け焦げるというよりも炭になっている。
 どれだけの高温がおそったのか。自分がここにいたらと思うと、恐ろしい。


復活したイチョウ

 校庭には立派なイチョウの木がある。
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 これは植え替えたわけではなく、被災時に焼け焦げたイチョウが、生き延びて緑を取り戻したもの。
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 ブランコの横にそのイチョウはある。
 なぜ全景を撮らなかったのか後悔する1枚。
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 普段の旅行記とは別に新たなテーマの記事を上げます。


日本は災害多発国

 日本は災害多発国家であります。
 これほど、自然災害が多い国はないです。
 台風、豪雨、豪雪、洪水、土砂災害、地震、津波、火山噴火。
 どれも多発する条件が整っております。

 毎年毎年日本列島に当ててくるのかと言いたくなるような形で台風が襲い、大雨も降れば冬には大雪も降る。4枚ものプレートの境が日本に集中していて、全世界の10%(M6以上20%)の地震が発生し、それに伴って津波は多発。全世界の7%にあたる活火山が日本に存在し、縄文文化を壊滅させた噴火が過去に起きたりしている。
 そんな中暮らす私たちはドM民族なわけですが、なんとか先進国としてやっていけています。


教訓を残す災害遺構

 日本各地には、そんな災害の記憶を残し、どう対処するか考えてもらうために、災害遺構が多数存在します。
 私自身の国内旅行では、これらの災害遺構をめぐることが目的のひとつであります。災害によって、どのような被害があったのか調べ、さらに現地に行ってみるということが非常に興味深いのです。
 記憶に新しい、東日本大震災においてすら、こういった震災の記憶を残す建物は取り壊されていっています。様々な遺構を見てきた私はできるだけ保存していくべきだと考えています。百聞は一見にしかずです。その一方でその建物の姿を見るのが辛いので、壊して欲しいという人もいます。気持ちはわからなくもないですが、いつかそういう人はいなくなります。そのときには形に残るものはなくなってしまいます。
 岩手に住んでいたこともあり、東日本大震災の震災遺構を中心になりますが、これから不定期的に紹介記事を上げていきます。べ、別に本編が煮詰まったときの代原じゃないんだからね!長期間更新が空いてるときはだいたい記事を書くモチベーションが上がらないから、これで埋める訳じゃないんだからね!なんか、ノリノリで書いちゃってもう10本ぐらい記事がたまってるとか言わないんだからね!


1992年雲仙普賢岳

 ……と東日本大震災中心と言いながら、第1回目は雲仙普賢岳の噴火による災害遺構です。
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 その災害遺構の場所は、島原市内道の駅みずなし本陣の中にあります。

 1990年(平成2年)に198年ぶりに活動を再開した雲仙普賢岳は、多くの被害をもたらしました。ある程度の年齢の方であれば、火砕流が報道関係者を襲い43名の死者・行方不明者をだした映像が記憶に残っているかと思います。この噴火活動は1995年(平成7年)まで4年半続き、島原市・深江町(現・南島原市)に大きな被害をもたらしました。
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 その噴火活動の中で、1992年(平成4年)8月9日に発生した大規模な土石流によって被害にあった家屋を保存している公園があります。「土石流被災家屋保存公園」です。
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 これは、報道関係者を中心に襲った火砕流とは別物の土石流によるものです。雲仙普賢岳の噴火の場合、火砕流による被害の教訓から立ち入りが厳しい警戒区域が設定されて、その後の人的被害は1名のみとなっています。


ただただ埋まっている家屋

 1992年(平成4年)8月9日に発生した土石流は、スピードが緩やかだったため、家屋の倒壊は免れ、土砂に埋没することになりました。もちろんスピードが速い土石流もあったわけで、そういったところでは跡形もなくなってしまっています。
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 およそ2.5m~3.0m程度埋まっているでしょうか。
 すでに長い年月が経っているため、自然の草が生えていてそもそも最初からこういう風に建っていたんじゃないかと思わせるぐらいになっています。
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 かろうじて屋根だけが見える家屋も。場所によって堆積量が異なるため、違いが生じます。
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 2階部分にはそれほど被害が出ていないだけ、妙な生々しさを感じます。
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 電柱も埋まっています。

 この公園では屋外に8棟、テント内に3棟の家屋が展示されています。
 屋外については24時間見学できますが、テント内は昼間のみの展示です。


テント内の家屋はさらに生々しい

 屋外の家屋はすでに長い年月さらされた結果、草が生えて最初からそのように建てたのではないかと言われるとそういう気がしなくもないですが、テント内はさらに生々しくなります。
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 さらに土石流を受けた状態のままという感じがします。
 もっとも、すでに乾いてしまっているので厳密には違いますが。
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 いくらスピードが緩く、倒壊しなかったとしてもそのエネルギー量が半端ありません。
 これだけの土砂を運ぼうとするとダンプカー何台必要でしょうか。それだけの量の土砂が運ばれてきた訳です。ここは運良くと言っていいかわかりませんが、建物が残った所になります。一方で、他の場所では跡形もなくなっているところもあります。

 今回の雲仙普賢岳の場合、当初火砕流において避難勧告しかだしておらず大きな被害が出ましたが、その後はその教訓を元に強力な警戒区域を設定し立ち入りを一切禁じたため、犠牲者が1名に押さえられました。様々な事情があることはわかりますが、災害時において避難勧告でも率先した避難をしていれば人的被害が確実に防げることを示しています。
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