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タグ:東日本大震災

(2023.5.1現在の情報に更新しました!)

 帰還困難区域が設定されて、自由に立ち入れない場所がある。その場所は具体的にどこなのかまとめた。
 便宜上、災害遺構というカテゴリーに入れているが、決してこの場所は災害遺構ではない。
 当ブログに適切なカテゴリーがなく、この記事のためだけにカテゴリーを新設すると読者にとってもわかりにくいと思われるため、ご容赦願いたい。


福島第一原発事故に伴う帰還困難区域地図を作ったよ

 福島第一原子力発電所の事故により、現在も多くの地域で立入が規制されている。ただ、その一方で着実に少しずつであるが規制の緩和が行われており、立ち入れる区域も増えてきた。ただ、実際にどこに立ち入れるのか、どこに立ち入ってはいけないのか、一元的に管理した地図がなく、あったとしてもかなり簡略化した地図であるためわかりづらい。
 というわけでみんなが一番使用しているであろうGoogleマップのマイマップ機能を用いて、帰還困難区域、立入規制緩和区域、特別通過交通制度適用道路の地図を作成した。原子力発電所周辺の今を見たい人々の参考にして欲しい。


福島県帰還困難区域地図

 出来上がった地図はこれ。リンクはこちらから。


 各区域の解説は次の通り。


帰還困難区域(要立入許可)

  オレンジ で示された区域は「帰還困難区域」である。
 定義は「放射線量が非常に高いレベルにあることから、バリケードなど物理的な防護措置を実施し、避難を求めている区域」となっている。
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 この写真で言えば左は解除された区域、右は帰還困難区域。入ろうと思えば入れるけど入っちゃダメだよ。
 もっとも自分の家に帰る場合や、墓参り、工事などについては地元の役所で許可を得ることで立ち入ることができる。許可があればいくつかのゲートがあり、そこから立ち入ることになる。なお、宿泊は不可能。
 以前は「避難指示準備解除区域」「居住制限区域」「帰還困難区域」に分かれていたが、「避難指示準備解除区域」と「居住制限区域」については全て避難指示が解除されており、現在残るのは「帰還困難区域」のみとなる。
 詳細は福島県の復興ポータルサイトが詳しい。



福島第一原子力発電所敷地(要立入許可)

  ピンク で示された区域は「福島第一原子力発電所敷地」である。
 いわゆる、事故現場。
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 帰還困難区域内に存在するのだと思われる。この辺、重複しているのかそうじゃないのか不明。
 大量の地下水に悩んでおり、敷地内は水を溜めたタンクがいっぱい。
 現在、この水を薄めて海洋放出するかしないかで議論沸騰中。まぁ、放出量としては他の国が海に流している放射線量よりも低いので基本的には問題は無いはず。ちなみに文句を言っている韓国は、自分の国で日本が流そうとしている量よりも大量に流してるんだけどね。
 一度はちゃんと東京電力のホームページを読んでみた方がいいと思うよ。どんな意見だったとしても。



中間貯蔵施設区域(要立入許可)

  グレー で示された区域は「中間貯蔵施設区域」である。
 帰還困難区域の中にあって、重複して指定されていると思われるが、詳細不明。
 除染などででた、放射性物質を含む土壌や廃棄物を最終処分するまでの間、安全に集中的に保管する施設。最終処分する場所が決まってなくても、ものは出てきてしまうのでとりあえず保管する施設。保管期間はいつまでかって?最終処分場が決まるまでだよ。
 この区域の国道6号線沿いには中間貯蔵工事情報センターがあり、ここは申請なしで見学することができる。



避難指示解除済区域(立入許可不要)

  水色 で示された区域は「避難指示解除済区域」である。
 この区域名は正式なものではないが、常磐線の開通に伴い避難指示が解除となった区域(=特に規制がない区域)で、当初は面的ではなく線的な解除になっていた。具体的には周辺が帰還困難区域内にある夜ノ森駅、大野駅、双葉駅と帰還困難区域外を結ぶ道路と県立大野病院敷地のみが解除された。
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 よって駅へ通じる道路は通れるものの、周りは全て帰還困難区域なので封鎖されている。
 ただし、双葉駅については周辺が立入規制緩和区域となっているため、夜ノ森駅の新設された西側の出入り口は帰還困難区域になっていないため、このような状況にはなっていない。
(2022.2.6削除)
 以前は駅へ通じる道路のみが解除されていて、周りは全て帰還困難区域だったので柵に囲まれた道路を歩く必要があったが、現在は全ての駅前が立入規制緩和区域となったため、自由に出入りできるようになり、柵だらけの異様な光景も過去の物となった。(2022.2.6追記)

 このほか常磐線鉄道用地と駅前広場についても同様に避難指示が解除されているが、別項目としたので当該項目を参照して欲しい。
 2022年には葛尾村(2022.6.13解除)と大熊町(2022.6.30解除)における特定復興再生拠点区域やそこへアクセスする道路の避難指示が解除された。(2022.6.21追記)
 2023年には浪江町(2023.3.31解除)、富岡町(2023.4.1解除)、飯舘村(2023.5.1解除)における特定復興再生拠点区域やそこへアクセスする道路の避難指示が解除された。(2023.5.15追記)


立入規制緩和区域(立入許可不要)

  黄色 で示された区域は「立入規制緩和区域」である。
 帰還困難区域内において、各町村が作成した特定復興再生拠点区域復興再生計画が国に認定されると、国による除染や廃棄物処理や、国による道路整備代行が行われる。これにより概ね5年以内に避難指示を解除して居住を可能とするものである。この計画・整備の一環として立入規制緩和区域が設定されて、制限付きではあるが許可不要で立ち入ることができるようになる。
 2020年3月に初めて設定された。立入規制が緩和されたものの、避難指示が解除されたわけではないため、宿泊はできない。

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 見た目は普通の住宅街。でも、人気はない。
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 公園とか遊具が植物に侵食されていってる。
 これは今後整備されるのかな。



 特定復興再生拠点区域における避難指示はすべて解除されたため、現在立入規制緩和区域の設定はない。(2023.5.15追記)


常磐線(避難指示解除済・立入許可不要)

  エメラルドグリーン で示された区域は「避難指示が解除された常磐線用地」である。
 常磐線と言えばやっぱりこの色だよね?(それは常磐線快速電車の色です)
 常磐線の運転再開に備え、この区間の鉄道用地(線路敷・駅舎・法地など)や駅前広場についても避難指示が解除された。よって特に規制がない区域となる。
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 大野~双葉間は震災前複線であったが、震災後の運転再開では単線とされた。旧上り線敷地はアスファルトで舗装されて避難通路として活用できるようになっている。推測の域を出ない話ではあるが、どちらかと言えば周辺は帰還困難区域であるため、立入には許可が必要であり時間が限られるので、保守などの作業がしやすいように道路を線路内に整備したっていう理由の方が大きい気がしなくもない。道路を整備しておけば保守などのためのトラックなども簡単に許可なく入れることができるので。もちろん、立ち往生したときに乗客をバスで運ぶのに活用できるということも否定しないが。


特別通過交通制度(立入許可不要)

  青色 または 紫色 で示された区域は「特別通過交通制度が適用されている道路」である。
  青色 は「四輪・二輪・原付」が走行可能で、 紫色 は二輪・原付の走行が不可能である。規制内容が異なるので注意されたし。なお、どちらの道路においても自転車や徒歩による通過は不可能である。
 基本的には通り抜けできなくて不便なところを通り抜けできるようにしたということだが、適用される道路が当初に比べてかなり増えた。常磐線とは違い、常磐自動車道はこの特別通過交通制度による道路である。
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 建物が建ち並ぶ場所ではこのようなバリケードが張られている。
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 山間部に行くとこんなにバリケードだらけではないが、「帰還困難区域内につき、長時間の停車はご遠慮ください」という看板が目に付くのでちょっとビビる。
 結構長距離に渡って通過する場合もある道路だが、この区域内では原則として人が立ち寄る場所はないので、当然トイレもない。車の外に出るのははばかられるので、ちょっと降りて用を足すわけにもいかない。なので、この区域を走る場合はあらかじめトイレを済ませておこう。
  ピンク色 の道路は「特別通過交通制度による道路」であるが、現在災害による路肩崩壊によって通行止めになっている道路である。通行の際には注意して欲しい。(現在該当の区間はない・2022.2.6削除追記)
 特定復興再生拠点区域における避難指示はすべて解除されたため、そこへのアクセス道路もほぼ避難指示が解除された。そのため特別通過交通制度の該当となる道路は双葉町と大熊町と南相馬市に存在するのみとなっており、大熊町と南相馬市においてはごくわずかな区間のみとなっている。(2023.5.15追記)


というわけで

 これらの立入許可不要な区域は、私有地まで立ち入っていいものではない。
 当然、所有者が必ずいるので、所有者の許可なく私有地に立ち入ることがないようにして欲しい。

 作成に当たって経済産業省、環境省、復興庁、福島県、各市町村のホームページを参考にした。元の資料の解像度の低さなどによって、数m~数十m程度の誤差があるかもしれないが、精度についてはご容赦願いたい。特に南相馬市の帰還困難区域については詳細な資料が見つけられず、特に精度が低く、大きくずれている可能性があると思われる。また、人家がないような山林内における区域境についても同様である。
 明確な誤りがあった場合、コメント欄やTwitter、右上にあるメールアドレスまで、証拠資料とともにご一報いただければ幸いである。
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 この震災遺構は2度襲われた。


2つの災害に襲われた震災遺構

 震災から11年目の春、新しい震災遺構がオープンした。
 石巻市立門脇小学校が震災遺構としての整備を終え公開したのだ。
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 私がこの場所に初めて来たのは2018年の冬。
 このときはまだ保存するかどうか決まっておらず、仮囲いに覆われた状態だった。周辺は何も無かった。そう、本当に何も無かった。震災前、ここには家々がみっちりと建っていたというのに。
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 次に来たときは2021年の秋。
 災害遺構としての整備工事が進んでいた。周辺には大きな大きな津波復興祈念公園ができた。家は戻らなかった。
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 そして、2022年4月に石巻市震災遺構門脇小学校としてオープンした。
 この震災遺構の特徴としてはなによりも、津波に襲われたことだけでなく、それによって発生した火災によって焼失したことである。津波は圧倒的な量の海水で押し流すだけではなく、様々な可燃物が流れて発火することもある。発火したものが流れることによりさらに火災が拡大していくこともある。


それでは入場

 もともと体育館だった場所が展示施設となっており、ここから入場することになる。
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 もともと体育館……とはいえかなり改造されている。
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 震災遺構となった校舎を横目に見ながら入場。
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 津波で流された消防団の消防車。
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 そして乗用車も展示されている。様々な場所で展示されている津波で流された自動車だが、どれも共通しているのはぐしゃっとなっているところ。インパクトはあるのだけど、「いや、それって交通事故でもそうなるやん」というツッコミをしてはいけない。
 順路としてはこの自動車をチラ見してすぐに外がに出る。


本校舎へ

 それではいよいよ本校舎へ。
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 津波浸水高の表示。おおよそ1階部分の中程程度まで浸水した。ただ、1階部分がすでに高くなっているので、地面からの高さで言えば1階分相当ぐらいあるだろうか。
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 ここは校長室。
 中央に見えるロッカーは金庫だった。
 卒業式1週間前だったため、金庫内には卒業証書が保管されていた。このような状況ではあったが、金庫は浸水を免れ、火災でも中身を守ったため、無事だった卒業証書は4月に延期された卒業式で卒業生に手渡されている。金庫ってすごいなというのが素直な感想。
 津波の被害に遭い、室内は散乱しているし、堆積物もある。その上火災で焼失している。
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 2階に上がってこちらは少人数指導室。
 津波によって流されている自動車や住宅に火がつき、やがてそれは門脇小学校を襲う。あるいは流されてきてから出火したものもあったかもしれない。いずれにせよ、津波で発生した火災は校舎へ燃え移った。机がそのままになっていることからもわかるとおり、この場所は津波で浸水はしていない。しかし、燃えた。
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 3年2組の教室。理科の授業でスペースを作るために机と椅子は後ろに下げていたらしい。床一面には焼け落ちた天井材が散らばっている。学校において地震の時の防災訓練ではまず机の下に潜るというのが定石である。しかし、このとき机は後ろに下げていた。地震の時は真ん中に集まって耐えたという。
 右に見える向かい合った椅子が、切なさを増幅させた。
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 3階に上がって、4年2組の教室。もちろんここも燃えた。
 不燃物の金属部分しか残っておらず、木材の部分はすべて焼失してしまっているのがわかる。
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 大きな地震が発生したとき、津波の発生が予想されたとき、高い建物を目指して避難したとき、このような火災が発生したらどうなるのか想像してほしい。


特別教室棟(展示館)

 焼失した校舎の次はその後ろに建っている特別教室棟へ。
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 こちらは焼失せず、改修されて様々なものを展示している。
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 こちらは門脇小学校の1階中央昇降口に置かれていた柱時計。
 津波によって40m先の会議室で見つかった。
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 こちらは焼失した教室の机と椅子。
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 浸水した黒板。
 どこまで浸水したのか一目瞭然だ。
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 こちらは焼失したオルガン。
 火災による熱の威力を感じる。


この場所の出来事

 この地域は石巻市内で津波による死者・行方不明者や被害が最も集中した場所である。海から進入した津波と旧北上川を遡上してあふれた津波がぶつかり合い、津波の水深や流速が速かったと推定されている。
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 当日のこの場所での避難行動についてまとめられている。
 門脇小学校では地震発生後およそ10分で、児童と教職員が校庭に避難している。そしてその5分後には裏山である日和山への避難を開始した。これは同じ石巻市内の大川小学校とは違い、避難訓練においても日和山へ避難するようになっていたため、意思決定でもめることなく避難開始している。このようにすぐに避難できたため、すでに下校していた7名を除き在校していた児童は全員無事であった。
 児童は全員避難していたものの、一部の教職員や住民が残っていた。
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 校舎に残っていた人々は津波と、津波によって火がついた家屋などが押し寄せてくるのが見えたため、脱出を模索し始めた。そして、教室にある教壇を校舎の2階と裏山の間にかけて橋にして避難することにした。写真の屋根部分と右側の雑木林部分に教壇を置いてその上を渡ったのだ。
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 体育館にいた人々もいた。この人たちは、先ほどの人たちが教壇で作った橋を見つけ、崖に立てかけることによって登って裏山に逃げることができた。
 ここで起きた出来事から考えられるのは、津波の発生が予想されるときはできるだけ内陸の地形的に高い場所に逃げることが第一であるということ。それは火災が発生するかもしれないこと、火災が発生しなくても津波による水はしばらく引かないので孤立状態が長期化することがあるからだ。それが不可能な場合には鉄筋や鉄骨コンクリートのビル(いわゆる硬い建物)の上層階に逃げると考えるのがいいだろう。
 門脇小学校においては避難行動がうまくいった。ところがこの地域では別の悲劇もあった。その話はまた別の震災関連施設について記事にするときに述べたい。


仮設住宅(体育館)

 震災復興に向けて、まずは住居の確保から。
 この震災遺構の体育館では仮設住宅が展示されている。
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 当時このような仮設住宅がたくさん建てられた。
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 私も住んでいたことがあるので懐かしい。
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 夏暑く、冬寒い仮設住宅は決して住みやすいものではない。
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 ちなみに4畳半2部屋+台所で3~4人が暮らすのは普通であった。
 防音性は皆無で暮らすのは大変である。でも、みんな大変だった。
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 もうね。ずるいよね。
 こんなん書いてある仮設住宅をわざわざ移設してくるんだから。
 仮設住宅の展示を見るときは、ここに一人で暮らしていたと思わないでほしい。ここで暮らしていたと思う人数の2~3倍の人々が住んでいたと思ってほしい。そうすればいかに過酷だったかわかる。


最後に外から

 さて、展示施設はこれにて終了。
 最後は外から建物の周りを歩く。
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 右側の樹はイチョウだ。震災前から生えていたイチョウは火災によって黒く焼け焦げたものの、その根元から新しい芽が生えて復活している。黒く焼け焦げた幹を守るようにして生えている。
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 校舎の西側に回ると、3階は焼失しているが、1階2階は焼失していないことがわかる。
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 たしかに焼失していないが、津波の被害は受けているので堆積物はあった。
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 同じことに繰り返しになってしまうが、津波が来るかもしれないときには「高いところに逃げればいいというわけではない」ということである。なるべく海から離れた高台に逃げるべきであり、ビルの上階に逃げるのは高台への選択肢がない場合に陰るべきだ。ビルの上階の場合、火災が発生したり火災が発生しなくても孤立状態が長引くことが考えられる。そのことを教えてくれる施設だった。
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 鵜住居であの時おきた「釜石の出来事(釜石の悲劇)」と「釜石の出来事(釜石の奇跡)」。


今回の舞台

 岩手県南東部に位置する釜石市は、東北有数の重工業都市であった。この地は近代製鉄発祥の地であり、日本で3番目に鉄道が敷設されるなど、かつては製鉄の街として栄え、最盛期には人口9万人を超えた。その後の製鉄需要の低迷による製鉄所の縮小や、東日本大震災による津波被害により人口は流出し、現在では3万人強となっている。ラグビー実業団チームである新日鐵釜石は日本選手権7連覇を達成し、そこで釜石の名を記憶している人も多いだろう。
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 釜石駅から三陸鉄道リアス線に2駅乗ると鵜住居(うのすまい)駅に着く。ここは震災による津波によって大きな被害を受け、街そのものが壊滅的な被害を受けたところである。この三陸鉄道も元々はJR山田線だったが、津波の被害からの復旧の過程で移管されたものだ。
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 2019年に開催されたラグビーワールドカップでは、ラグビーの街であることから東北地方唯一の試合会場として「釜石鵜住居復興スタジアム」で試合が行われた。2試合行われる予定であったが、残念ながら1試合は台風による水害で中止となってしまった。
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 今回取り上げる震災遺構(というより震災伝承施設)はこの鵜住居にあり、そして震災で発生した2つの対照的な話の舞台である。


いのちをつなぐ未来館

 釜石市内には震災遺構と呼ばれるような津波による被害を受けた施設は残っていない。
 釜石市は保存という議論をしないままに、とにかく残っていた建物を全て取り壊してしまった。あるのは訪れるのが不便な場所にあって、被災当時のまま放置されている建物だけである。
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 それではマズいので、震災の出来事や教訓とすべきことを伝えるとともに災害から未来の命を守るための防災学習を推進する施設として「いのちをつなぐ未来館」を鵜住居駅前に設置した。
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 館内は大きく3つのパートに分かれている。
 まず一つ目は釜石市において震災が発生してから1週間の動きをまとめた展示である。混乱状況の中どのような対応をしていたのか、特に釜石市役所は地下を除き市役所自体の浸水は免れたものの周り全てが浸水し、瓦礫で埋まった中でどのように活動していったのかまとめられている。


釜石の出来事(釜石の悲劇)

 残りの2つのパートは震災で発生した2つの対照的な出来事のことである。
 そのうちのひとつがこれから述べる「釜石市鵜住居地区防災センター」で発生した出来事だ。
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 この施設には釜石市鵜住居地区生活応援センター(市役所出張所・公民館)、釜石消防署鵜住居出張所、釜石市消防団第6分団第1部消防屯所が入っており、主に行政窓口、生涯学習の場、消防関係施設の役割を担う施設であった。
 「防災」と入っているがそれは災害時には避難民の収容施設として使われることを意図したものである。しかし実態としては建設財源確保のため、(起債することが認められやすく充当率を高めやすい)防災施設名目での起債をする必要があった、あるいは国の補助金を獲得するため、「防災」という言葉を入れざる得なかったのではないかと思われる。なお、国の補助金は実際には獲得できなかった。こういった状況であったため、建物を3階建て以上にすることや屋上への避難階段など津波避難対策設備は経費削減の名の下設置されなかった。
 このような経緯の上で、震災の1年前となる2010年2月に「釜石市鵜住居地区防災センター」は開所した。この施設は、県が作成した津波浸水予測図では浸水区域には入っていないものの過去の明治三陸地震津波の浸水域にギリギリ含まれるため、津波被害の一次避難場所ではないが洪水・土砂災害の一次避難場所であり、津波被害を含む中長期的な拠点避難場所という位置づけとなった。
 この防災センターのわかりづらい機能については住民説明会においても説明がなされていたが、住民が理解したかどうかは別問題である。実際に地域防災計画においても「津波避難場所」「一次避難場所」「拠点避難所」「避難者収容施設」などの類似した言葉が並んでおり、住民がそれぞれの違いを認識するのは困難であったと思われる。
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 この施設の開所後の平成22年2月28日、チリ地震による津波警報(大津波)が岩手県沿岸に発令された。その際に住民がこの施設に避難してきている。また、その後地域の避難訓練においても避難場所としてこの場所が設定された。避難訓練の避難場所として、この場所が使われた理由は、自主防災組織である町内会が高齢者や体が不自由な人への配慮、津波避難場所は屋外であるため寒さへの苦情を減らし、防災訓練への参加率向上を狙ったものであった。その際に、本来津波の場合の避難場所はここではないことについて個人的に話す者はいても、市としては積極的な告知を行っていなかった。東日本大震災が発生する8日前の平成23年3月3日においても津波避難訓練が行われ、101名が参加しこの場所に集まっている。住民の多くはこの場所を避難先だと認識していた可能性が高い。
 そして、平成23年3月11日、東日本大震災が発生する。
 鵜住居の街は津波にのみ込まれた。
 「鵜住居地区防災センター」に避難した人々がいて、その多くの人々が2階屋上近くまで達した津波にのみ込まれた。避難した人々の数は、正確にはわからないが「確実にこの場所に避難していない人を除いた人数」で推計したところ241名としている。このうち助かった人数は34名。
 (実際にはもう少し少ないと思われるが)200名をこえる多くの人がこの場所で亡くなった。財政難においても老朽化した施設を新しくするためにひねり出した言葉は、当初の思いとは関係なく転がり出して、最終的には多くの犠牲者をだすことになった。

 その後、一部の遺族と「市はセンターが避難場所ではないと周知する義務を怠った」として、損害賠償を求める裁判が行われた。結果、盛岡地裁では遺族敗訴、仙台高裁では和解となり市が責任を認め、和解金約49万円を支払うこととなった。この和解金は裁判にかかった印紙代相当額となっている。


釜石の出来事(釜石の奇跡)

 一方で全く逆の出来事もあった。この施設ではそれも紹介されている。
 釜石の子どもたちは地震発生後、自身の判断で避難することにより、その多くの子どもが助かることができた。その要因は釜石市の小学校・中学校において、片田敏孝群馬大学教授(当時・現東京大学特任教授)の監修のもと、毎年5~10時間程度の防災教育や避難訓練に取り組んできたことである。
 海に近い市内中心部の釜石小学校では震災の日は短縮授業で児童は下校していた。下校してそれぞれが自宅で街でおのおのが過ごしていたが、震災直後に全員が「それぞれ」「各自の判断で」高台に避難し、難を逃れることができている。
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 そして、この鵜住居でも同様の話がある。
 ラグビーワールドカップ会場となった釜石市鵜住居復興スタジアムは、津波で被災した鵜住居小学校と釜石東中学校の跡地に建っている。震災当日、地震が発生直後に中学生は校庭に集まっていたが先生の「なにやってるんだ!早く逃げろ」の指示に従って高台に向かって逃げることとした。校庭で練習していた中学校のサッカー部員は隣の小学校に避難を促し、訓練で決まっていた800mほど離れた避難場所まで走った。その過程で近隣の高齢者にも避難を促して、率先避難者として中学生たちは避難した。その後中学生たちは小学生や保育園児、高齢者など手を取り合って、迫る津波を見てさらに高台へ高台へ逃げることとなる。最終的には峠のトンネル間近まで逃げ、その後開通したばかりの三陸自動車道を使用して避難所まで移動することができた。
 これらの中学生たちが自主的に率先して避難することによって、多くの命が助かった出来事は「釜石の奇跡」として日本全国に広まった。

 震災から2年後、釜石市役所では「釜石の奇跡」という言葉は使用せず、これらの出来事は「釜石の出来事」を使用するという決定をする。この決定を不思議に思う人がいるかもしれない。しかし、当事者はこの出来事を奇跡と呼ばれることが不思議であったのだ。
 「釜石の奇跡」ではなく「釜石の出来事」とする理由は大きく分けて三つある。
 その一つは、「釜石の出来事」は日頃から防災教育や避難訓練を行ってきたことによって達成した「奇跡でも何でもない当然の成果」であるからだ。これらの出来事は「当たり前」なのである。そして、それは釜石だけではなく岩手県内において学校管理下における児童生徒に1人も犠牲者が出ていないことからも、そもそも奇跡でもなければ釜石だけの出来事でもないということである。このような出来事は大なり小なりそれぞれの学校でもあった。
 もう一つは、学校管理下に置いて1人も犠牲者が出ていないとはいえ学校管理外の場で児童生徒が5人亡くなっているということ、教職員が3人亡くなっているということ、そしてその1人は「釜石の出来事」の舞台となる釜石東中学校の事務職員であったからである。そのほかにも多くの方がこの街で亡くなっているところで「奇跡」と呼ばれるのは、はばかられるということもあるだろう。
 そして、最後に、本人たちがそういわれることを希望していないことである。この出来事は本人たちだけで成し遂げられたものではなく、日頃の教育・学校の先生・消防団の人々・地域の住民など多くの人々の助けがあったおかげであることを本人たちは知っている。だからこそ、本人たちは奇跡の当事者として祭り上げられることに違和感を感じたのだ。

 この「いのちをつなぐ未来館」では、全く対照的な出来事がこの地で起きたことを私たちに教えてくれた。この施設にはこの「釜石の出来事」を経験した語り部がいる。語り部については有料だがWEB予約して案内してもらうこともできるので、訪れた際にはぜひ直接話を聞いてほしい。


釜石祈りのパーク

 鵜住居駅前には他にも大きな公共施設がいくつかある。
 そのうちの一つが釜石祈りのパークである。
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 ここは釜石市の東日本大震災犠牲者慰霊追悼施設となっている。
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 造成された小高い丘に囲まれるように、慰霊碑がある。見たくない人が見なくて済むように、目隠しのために丘が作られている。この慰霊碑には震災で亡くなられた方1,064名の内、了承した999名の芳名を記した芳名板が設置されている。この芳名板は当初五十音順で並べられていた。しかし、亡くなった家族の名前をバラバラに配置せず、隣り合わせに並べて欲しいという要望が多く、設置から1年後に芳名板を並び替えた。
 写真右上に見える黒い碑は津波の高さを示している。この地での津波の高さは11m。この高さの海水の塊が鵜住居の街を襲った。
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 「釜石市防災市民憲章 命を守る」の碑もある。
 釜石市防災市民憲章同憲章制定市民会議により原案が作られ、平成31年3月11日に制定された防災市民憲章は震災に対する重要な教訓が含まれている。

釜石市防災市民憲章 命を守る

釜石市は、2011年3月11日に発生した東日本大震災の大津波により、千人を超える尊い命を喪った。その悲しみが、癒えることは決してない。
しかし、古来より、先人たちが、度重なる災害や戦災をたくましく乗り越えてきたように、今、私たちは、ふるさと復興への途を歩み続けている。
自然は恵みをもたらし、ときには奪う。
海、山川と共に生き、その豊かさを享受してきたこの地で安全に暮らし続けていくためには、また起こるであろうあらゆる災害に対し、多くの教訓を生かしていかなければならない。
未来の命を守るために、私たちは、後世に継承する市民総意の誓いをここに掲げる。

備える
災害は ときと場所を選ばない
避難訓練が 命を守る

逃げる
何度でも ひとりでも 安全な場所に いちはやく
その勇気は ほかの命も救う

戻らない
一度逃げたら 戻らない 戻らせない
その決断が 命をつなぐ

語り継ぐ
子どもたちに 自然と共に在るすべての人に
災害から学んだ生き抜く知恵を 語り継ぐ 

私たちは生きる。
かけがえのないふるさと釜石に、共に生きる。

 事前に「備える」、地震が起きたら「逃げる」「戻らない」、そして震災の出来事を「語り継ぐ」ことが1つでも多くの命を救うことになる。この言葉は釜石市民だけでなくて、全ての日本の海沿いに住む人々が心に刻む必要があるものである。
 この教訓は震災時この地で起きた二つの「釜石の出来事」が大きく影響している。そして、この釜石祈りのパークは「釜石の悲劇」の場所となった鵜住居地区防災センターの跡地に建てられている。この場所だからこそ慰霊碑を建てることになったのだ。


どこで生死を分けたのか実感させられる施設

 行政が作った震災伝承施設は、どうしても総論を述べることになりがちで、個々の事例を掘り下げた展示がなされることはあまりない。それは地域に一つという施設で、そういった生還した話や逆に亡くなられた話というのはたくさんありすぎて取り上げにくいのだろうと思う。
 そういう意味では、「釜石の出来事(釜石の奇跡)」として取り上げられたこと、「釜石の悲劇」として後々裁判にまで発展したこと、注目を集めた対照的な出来事だったからこそ、それにスポットをあてた施設を作ることができたのであろうと思われる。その結果、どこで生死を分けたのか、展示だけではあるけれどイヤというほど実感させてくれる施設であった。
 これら出来事を、我々は忘れてはならない。これらの出来事から得られる教訓を、我々は忘れてはならない。自らが率先避難者として避難すること、それを周囲に促すこと、そうすることによって救われる命は必ずある。何回避難しても津波が来なかったとしても、何回も何回も率先して避難して臆病と言われても、それでも避難するべきなのだ。
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 津波への備えはあったけれど。


今回は正直地味な遺構

 震災遺構が各地に整備されてきて、正直派手な物と地味な物がある。
 今回紹介するのは正直言って地味である。地味であるけれど、そこには大きな教訓がある。
 場所は久慈と宮古のほぼ中間に位置する岩手県田野畑村。ここには明戸海岸という観光地があった。海岸とそれに付随してキャンプ場や野球場などが設置されており、さけの孵化場もあった。
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 私が行ったときには静かな海だけがあった。津波で建物を、人々を、全てを飲み込んだとは思えない、静かな静かな海だった。


ズタズタに破壊された防潮堤

 明戸海岸にある9mの高さがあった防潮堤は震災による津波によって破壊され、津波はさらに背後の集落に向かって進んでいった。さけの孵化場もキャンプ場も野球場も飲み込んで津波はさらに奥にあった明戸の集落まで襲った。最大遡上高は25.5m。最大遡上高とはその海抜の高さまで津波が来たということであり、津波の高さとは違う。あくまで勢いで陸地を遡っていくため、陸地が高くなれば津波も高くなるということである。この時の津波の高さは推定17.1m。高さ9mの防潮堤をあっさりと越えた。
 ここからわかることは「津波の高さ6mだから海抜6m以上の場所にいれば平気」ということにはならないということだ。最大遡上高は25.5mなのだから、そこまで津波は上がってくる。もちろん頑丈な高さのある建物に避難できるならいいが、そうでなければとにかく海から遠くに逃げることだ。「海から離れること」と「なるべく高い建物や場所に逃げること」が重要である。
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 この地にはその破壊された防潮堤の一部が保存されている。
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 頑丈なコンクリートの防潮堤がズタズタに破壊されているのがわかるだろうか。
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 自然の災害の前で人工物は無力である。
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 元々あった防潮堤も少し残っていた。この断面からどれだけの高さの防潮堤があったのかがわかる。


津波は大きな物も運ぶ

 そして、津波は防潮堤を破壊するだけでなく、大きな物を運んでくる。
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 これは明戸海岸の海中に設置されていた波消しブロックである。
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 牡蠣の殻が付いていることからわかるとおり、これらは海中にあったものである。
 沖合200mと場所から8tもする物が流されてきたのだ。もちろんこれらは単独で置いてあったわけではない。積まれていたのだ。多数積まれていた物が流されて来たのである。


そして新しい防潮堤が作られた

 新しい防潮堤が元々の防潮堤よりも海岸から離れた位置に設置された。
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 新しい防潮堤の高さは12m。震災前の防潮堤の高さは9mだったので、3m高くなっている。
 一方で東日本大震災に津波の高さは推定約17.1mである。もし、東日本大震災と同じレベルの津波が発生したときにはこの防潮堤では役に立たない。しかし、この高さの防潮堤を作ることは現実的ではない。東日本大震災レベルの防潮堤を全て整備することは莫大な費用がかかるからだ。それでも、以前よりも高くすることで、津波を完全に防ぐ確率が高まり、越えた津波の勢いを減らすことができる。そして、その背後にも防潮堤以外の津波を防ぐ二重三重の仕組みが備えられている。それは遡上高を下げる、浸水区域を少なくすることに役立つのだ。
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 あれから10年も。
 この先10年も。

10年という区切り

 あの日から10年が経つ。
 10年経って、震災復興は一区切りついたと言ってもいいだろう。
 三陸沿岸を結ぶ三陸自動車道は、仙台~宮古間が今年度(2020年度)に全て開通した。かなり大きな橋を作る必要があった気仙沼市内区間も2021年3月6日に開通した。震災時ほんのわずかな区間しか開通していなかったが、震災によって整備が大きく前進することになった。釜石市内では津波被害者を避難施設に輸送するにあたり、この三陸自動車道が役に立った。高台を通る道路は津波からの避難場所にもなった。まさに、命を守る道路だ。
 海辺には大きな大きな防潮堤が出来上がった。人々が住むところからは海が見えないほど、高い高い堤防が出来上がった。住民達の住居も造成を行い、かさ上げをしたり山を切り開いたりして、高い位置に移転した。震災によって受けた大きな傷跡は新しい街の形に生まれ変わった。
 もちろん、個人個人では復興は終わっていないという人もいるだろう。復興が思い描いた形にはならなかったという人もいるだろう。様々な事情があるので、そう思う人がいてもおかしくない。
 それでも、どこかで区切りをつけなくてはいけない。
 それが今だと私は思う。

(当然、福島第一原発周辺についてはまた震災とは異なることを補足しておく)


最大級の震災遺構

 東日本大震災の災害遺構で、おそらく最もインパクトのある場所を10年目のこの日に紹介する。
 「震災遺構を1カ所だけ見るならどこがいいか?」と聞かれたときに、私はこの場所を迷わず選ぶ。
 「最も津波の威力を実感できる場所はどこか?」と聞かれたときに、私はこの場所を迷わず選ぶ。
 「最も心が揺さぶられる震災遺構はどこか?」と聞かれたときに、私はこの場所を迷わず選ぶ。
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 私が選んだ場所は「気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館(旧気仙沼向洋高校)」である。


2018年5月気仙沼向洋高校跡地

 2018年5月に私はこの気仙沼向洋高校を訪れている。
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 まだ震災遺構保存に向けた工事は始まっていなかった。
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 変わらず建っているように見えるが、よく見ると校舎に窓がない。
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 校舎の裏側に回ってみる。やはり下の階の窓は無くなってるし、壁も破壊されている。
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 なにやら大きい物が倒れている。これは元々あったものか、それとも流れてきたのか。
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 校舎内にはめちゃくちゃになった車が放置されていた。
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 また、何台もの車が押しつぶされているのもそのままになっていた。
 この時点で震災から7年経過している。おそらく意図的に残しているのだろう。
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 まだ中が見学できない状態とはいえ、なかなかインパクトに残る震災遺構であった。


2019年3月の気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館

 2019年3月に気仙沼市の震災遺構施設として気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館がオープンした。
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 というわけで早速初日に行ってみた。
 大きく見える二つの校舎の前には新しい建物が建っていた。
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 駐車場には津波の被害に遭った国土交通省の作業車が展示されている。
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 めちゃくちゃとしか形容できない。
 後部の被害はそれほどでも内容に見えるが運転席側の被害が大きい。
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 もう1台は運転席部分がそもそもなくなっていた。
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 3階までの窓は全て無くなっている。
 このあたりまで津波が来たということ。
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 それでは内部に入っていこう。


南校舎1階

 入場料を払って入場すると、まずはシアターに入り映像を見る。
 この映像は津波の映像が使われており、そもそも見ないという選択肢もある。ただ、なるべく見ておいた方がいいだろう。その後、写真展示があり、いよいよ建物内部の見学になる。なお、この伝承館内の写真撮影は禁止なので注意してもらいたい。
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 まずは南校舎の見学。
 1階部分は天井が剥がれて全てが破壊し尽くされている。
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 階段部分にも瓦礫が残っている。
 これが震災直後と同様なのかはわからないが、おそらくそうなのだろう。
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 給湯器があったり、車椅子があったりするところを見るとここは保健室だろうか。
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 砂の残り方が生々しいなって思う。


南校舎3階・4階

 階段またはエレベーターで3階に上がる。
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 この階のメインは流された車である。
 津波によって車が3階まで来たのだ。
 3階なので地上から8mある。しかもこの車は南三陸町の人に代車として貸し出されていたものということで、当時どこで被害に遭ったのかわからないが、もしかしたら何kmも離れたところから流された可能性がある。
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 4階に上がると錆びたレターケースがある。
 この錆こそが津波の痕跡であり、4階床上まで津波が来たことを示す。
 この高さはおおよそ12m。12mもの津波がこの高校を襲ったのだ。
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 昔ながらのパソコンも水に浸かった。
 このスポンジ状のものは後述する冷凍倉庫の壁材である。
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 4階は比較的被害が少なかったがそれでも泥がたくさんついていた。


南校舎屋上

 屋上に上がる。
 4階建てなので、もう屋上しかない。
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 北校舎が見える。
 北校舎は窓枠が3階以上は残っているので、津波の流れは南側から校舎を襲い、南校舎によって威力が減じたというところだろうか。
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 屋上から見ると旭崎と呼ばれる高台が見える。
 ここは膝上まで津波が来たそうで、ここに避難した8名は松の木につかまり波に耐えたとのこと。人間膝まで浸かると立っていられないのでよく耐えた。その後偶然流れ着いたアルミのはしごでケヤキの木に移り、その後流れ着いた2名を含め合計10名が助かった。このケヤキの木は明治三陸大津波の後、「樹木は命を救う」ということで植樹されたもので、東日本大震災でも10名の命を救った。
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 この高校では当時校舎にいた生徒達は他の高台への避難誘導が成功し、被害は出なかった。重要書類の待避なので残っていた教師や校舎の工事関係者の合わせて約50名が最終的にこの南校舎の屋上に避難することになる。結果的に4階の床上25cm程度で津波は収まったが、当時この場所に避難した人々は気が気でなかったであろうと思われる。少しでも高いところへってことで机を積んだりしたようだ。おそらく、階段室の屋根への避難を考えていたのだろう。
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 こちらは南校舎屋上から見る体育館跡地。
 実際にはこれには大きなかまぼこ形の屋根があった。
 津波によってその屋根部分が流れてしまい、コンクリート部分だけが残ったものである。
 こう見るとやはり、コンクリートは強いと思う。もっともコンクリートの建物でも他の場所ではなぎ倒されたりもしているのだが。


外部見学

 それでは南校舎から外に出る。
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 さきほどの体育館は近くで見るとより無残な状態であることがわかる。
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 振り返ると南校舎4階部分が大きくえぐれているのがわかる。
 これは冷凍倉庫が激突した跡だ。
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 内部から見るとこんな感じだ。
 冷凍倉庫が激突とはまったく意味がわからないが、とにかく鉄筋の冷凍倉庫がぶつかったのだ。どれだけの大きさの倉庫がぶつかったのだろうか。前項でも簡単に述べたが、室内にはスポンジ状のものが残されており、冷凍倉庫の壁材は室内に流れていった。これが正面から衝突しなかったことで、この校舎が持ちこたえられたのではとも言われている。
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 北校舎とさらに北側にある総合実習棟の間にはたくさんの瓦礫や車が積み重なったまま残っている。
 破壊の大きな大きな威力に驚く。
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 その後北校舎内を通って、元の伝承館に戻る。
 被災後の生活に関しての展示やミニシアターで教訓などの映像を見て一通りの見学が終わった。所要時間はゆっくり見て90分ぐらいだろうか。映像上映のタイミングが良くて早足で回れば60分程度かかるだろう。



最も心を揺さぶられる震災遺構

 東日本大震災の震災遺構の多くを見てきたけれど、気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館が一番心を揺さぶられる。もしかしたら、思考停止してしまう人がいるかもしれない。でも、そこで終わってはいけない。
 復興が進み、防潮堤が整備され、住居は高台に移転し、安全になったように思える。
 それ自体の整備は命を守る、財産を守るという意味で無駄ではないが、それでも大きな地震が来たときに避難することを忘れてはいけない。震災では色々な理由で亡くなられた方がいるけれど、一番多いのは避難しなかったことによって亡くなったと思われる。避難していれば助かった命はたくさんある。死者数は何分の一にも減ったかもしれない。
 大地震はいつか必ず起こる。大津波はかなりの確率で来る。そのとき、適切な行動ができれば生き延びることができるのだ。この施設を見学すると、そのことをイヤというぐらい実感させられた。
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 災害遺構が災害を受けてさらなる災害遺構になる。
 そんなこともある。


令和元年東日本台風

 昨年のことなので、記憶に新しい人も多いだろう。いや、コロナのせいで、もう遠い昔の記憶になってしまっているかもしれない。
 2019年、東日本を襲った台風19号。進路としては関東縦断しただけの形になるが、勢力の強さによりその被害は大きいもので、北陸新幹線の車両が水没したとか記憶に残っているだろう。
 そして、この時ラグビーワールドカップが開催されていた。
 台風が来る次の日は釜石での試合が予定されていた。私自身もこの時は釜石入りして観戦する予定だったが、残念ながら試合は中止になってしまった。台風が近づく夜、釜石は一晩中サイレンが鳴っていた。避難所も開設されていたが、川の近くであるものの鉄筋コンクリートの建物で津波にも耐えた建物だったのでこの場にいた方が安全と思い、ホテルにとどまった。一夜明けた釜石では冠水するなど大きな被害が生じ、街の様相が大きく変わっていたのを覚えている。


河川増水により被害を受けた「メモリアルパーク中の浜」

 今回は以前も取り上げた「メモリアルパーク中の浜」を再び取り上げる。
 前回の記事はこちら。

 元々は静かなキャンプ場だったこの場所は、震災による津波で景色を一変させた。
 その後、震災遺構として整備され、津波の被害を受けた場所をきれいに保存している。
 そして、この場所は、また、被害に遭うことになる。
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 訪問時点で10ヶ月経過しているがそのままだ。
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 通路がえぐれているのがわかると思う。
 小川でしかなかった川が、暴れた。
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 わかりづらい写真で恐縮だが、奥に橋が架かっていて、その橋に木など大量に流れてきたものが絡まっているのが見える。どちらかと言えば修復するお金がないので、そのままになっているというのが正しいかもしれない。
 様々な災害の中で、比較的容易に予測が可能なのは台風だ。
 台風に関して言えば、あらかじめ避難しておくことも可能である。
 普段はおとなしい小川もこのように暴れる。特にこの時の台風は気象庁が尋常じゃないほど警告していた。特に地理的要因(低地など)や構造的要因(木造や低層階)の人々はきちんと避難する必要があるだろう。


震災の遺構

 さて、入口部分のインパクトがでかすぎたが、他の所も見ていこう。
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 震災の津波で大きな被害を受けたトイレ。
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 こちらは変わらず。
 台風の被害はあまりなかったようだ。
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 鉄筋コンクリートでも、津波でもげた炊事場。
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 前回来たときは、夕方で雨も降っていたので静かな恐ろしさを感じる施設であったが、今回は夏の晴れた日だったので、そこまで恐ろしさを感じることはなかった。
 でもね。津波は来るんだよ。この写真の位置でもかなりの高さだけど、東日本大震災の時にはこれでも足りない。なぜなら、目線が津波の浸水した高さになるように調整されているから。だから、この場所にいるとき、もし大地震が発生したら、ここではない近くの山に真っ先に逃げるべきだ。
 そんな教訓を教えてくれる施設である。
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 あれから9年目の3月11日を迎える。
 津波に流されても助かった人がいた一方で、津波に流されて亡くなった人もたくさんいる。
 津波から逃れた奇跡がある一方で、津波にのまれた悲劇もたくさんある。
 今回は一番有名で、一番悲しい話。


消えた集落

 岩手県北部の岩手町から盛岡、花巻、北上、一関と通っていく、東北地方最大の河川である北上川は宮城県石巻市に河口がある。その河口の近くには釜谷という集落がある……いや、あった。

 ↓震災前2008年10月
CTO20082X-C8-14_
 ↓震災直後2011年3月19日
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 ↓震災後2015年5月
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 出典:国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)
 ※なお、掲載にあたり写真の回転、トリミング、縮尺変更、赤線追加を行った。

 この北上川の河口に位置する釜谷集落には108世帯の人々の住居があった。一番上の震災前の写真を見ると、それなりに家が建っているのがわかる。そして、真ん中の震災直後の写真では、その集落が跡形もなくなっているのがわかるだろうか。そして、下の写真では震災から4年経過したにもかかわらず、建物はなくなったままである。
 比較するとわかるが、震災によって新北上大橋の橋桁が一部流されて、下の写真では仮設の橋になっている。この橋は2016年6月10日に開通している。その他にも堤防の復旧や、集落内の道路の復旧が行われた。
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 その一方で、集落の復旧工事が行われているような気配はない。なぜなら、この集落全域が災害危険区域に指定されたからである。
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 出典:石巻市 災害危険区域の指定区域図(北上地域)
 ※なお、掲載にあたり図面のトリミングを行った。

 災害危険区域に指定されると、石巻市の場合、住宅や宿泊施設、病院、保育園などを建てることができなくなる(※市町村によって異なる)。つまり、上記の指定区域図によれば、平地の部分のほぼ全てにおいて住宅の建築ができないので、集落としては成立できず、復旧・復興はなされないということである。

 そんな元集落に唯一の建物がある。

 石巻市立大川小学校。

 多くの人々の記憶に刻まれた、小学校の名前。


津波の爪痕

 前項の空中写真に赤枠で囲ったところが、石巻市立大川小学校の敷地である。
 昔も今もそこに小学校の建物はある。すでに、小学校ではなくなったが。
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 この小学校の跡地は不思議な静寂に包まれていた。前項で書いたとおり、周りに人家はなく、津波の被害に遭った小学校だけが残っている状態だが、それだけでは説明できない静かさである。まるで、ここだけ周囲から切り取られたような、そんな静かさ。
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 立派な校門が切り取られ、ここに置かれている。
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 敷地に入ると、慰霊碑が目に入る。ここは津波避難の遅れにより、全校児童108名中74名(当時校内にいたのは78名)、教職員13名中10名(校内にいたのは11名)、その他地域住民や保護者、スクールバス運転手など多くの人々が命を落とした。
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 慰霊碑から見える教室の中を見るとたくさんの仏像や千羽鶴があった。
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 体育館であっただろうと思われる施設。
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 校舎と結ぶ橋は津波の威力によってひねるように破壊されていた。
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 柱やコンクリートの壁は残存しているが、大多数の壁はおそらく材質の違いなどによって破壊されている。黒板などは残存しているのに、壁がなくなっているのが不思議である。力のかかり具合などがちょっと違うだけでも、結果は大きく違うのかもしれない。
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 校舎は2階建て。屋上には上がれない構造になっていた。北上川河口付近とはいえ、河口から5km程離れており、ハザードマップでも河口から3km程までしか津波が来ないとされていたため、そのような配慮はされていなかった。
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 2階部分の室内を望遠で撮ってみる。こう見ると天井近くまで津波が来ていたことがわかる。つまり、屋上に出られない構造上、どうしたとしても助からなかったということになる。しかし、児童と教職員は当時校内に長いこととどまっていた。


ここでなにがあったのか

 全校児童108名中74名(当時校内にいたのは78名)、教職員13名中10名(校内にいたのは11名)、その他地域住民や保護者、スクールバス運転手など多くの人々がこの場所で命を落とした。学校における事件事故で児童が犠牲になった人数としては戦後最悪のものである。
 地震直後、児童は教員の指示に従い、校庭で整列していた。市の広報車が避難を呼びかけていたという。校長が不在で指揮系統が定まらぬまま、避難するかしないか、どこへ避難するか議論が行われたという。裏山に逃げるのか、別の場所に逃げるのか。結果的に、堤防より高台になっているところへ逃げようとしているときに、津波が人々を襲った。
 地震発生から約50分後のことであった。
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 逃げようとしていたのはこの正面の木の左側のあたりである。
 横には新北上大橋が見える。北上川の堤防の高さに橋は架かっていることからわかるとおり、堤防よりもそれほど高い場所ではない。もし、ここまで逃げられたとしても、津波を避けることはできなかった。ここに津波が来ないと言うことであれば、そもそも北上川の堤防は越えてないわけで、避難する意味が一切なかったと言える。
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 出典:大川小学校事故検証委員会 大川小学校事故検証報告書
 原出典:防災ガイド・ハザードマップ 石巻市 平成21年3月

 震災前に作られていた津波のハザードマップによれば、この区域は津波浸水想定区域にはなっていなかった。他にも河口からは約5km離れており、北上川の堤防は6m、津波の到達予測も当初6m、また地元住民からのここには津波が来たことないから大丈夫だという発言が、そもそもここは避難しなくてはいけない場所なのかという考えに至る可能性があっただろう。


どうすればよかったのか

 どうすれば良かったのか。それは簡単と言えば簡単である。とにかく逃げること。ただ、逃げればいいということではない。どこに逃げるかが重要。
 大川小学校の人々は三角地帯と呼ばれる堤防際の高台へ逃げることを最終的に選択した。しかし、その判断は遅く、避難している途中で津波に襲われることになる。また、前項でも書いたとおり、避難できたとしてもそこも津波に襲われており、同様の結果となったと思われる。
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 学校の近くには、もっと高い場所があった。
 いわゆる、裏山である。
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 一つは、体育館裏手の斜面で、過去(平成21年頃まで)にはこの場所でしいたけ栽培の授業が行われていたとのことである。写真で見ると道状のものがあるが、これは昔からあったという人もいれば、震災後斜面に入る人が増えたためという人もいるため、以前からあったものと断定することができない。とはいえ、比較的なだらかな斜面であり、とにかく高い場所へ避難すると言うことであれば一つの選択肢であったことは間違い無い。
 しかしながら、木が生えているため中の状況がどのようになっているか不透明である。見えないところでの斜面の崩落など発生している可能性もあった。
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 もう一つは急傾斜ではあるが、崖崩れ防止工事が行われた斜面である。
 平成15年に崖崩れがあったときに工事が行われた。ここでは当時不在だった校長が斜面に登った経験があったり、震災前年には3年生児童が先生に引率されて一番下の部分に登った経験があるようだ。ここであれば目視した範囲で崩れていないか確認できるので、先ほどの場所よりも避難する決意がしやすいものと思われる。しかし、斜面はかなり急である。
 さらにこの右手の斜面も「大川小学校事故検証報告書」によれば学校の周辺状況の裏山の項にに記載されている。自身で撮影した写真がないため、詳細は記載しないが、最初の斜面とほぼ同様の条件のように思える。
 このように、避難できる場所は近くにあった。校庭で長いこととどまっていて避難するよりも、すぐさま裏山の斜面に逃げることが先であった。どうすべきであったかと言われればそれが正解だったということになるだろう。「Second Best, Tomorrow(最善でなくても今できることをやれ)」という言葉がある。最善の選択肢を選ぶのに時間をかけるよりもまず行動すべき、この時必要だったのはこれだった。


なぜそうしなかったのか

 そのように避難候補地があったにも関わらず、そこになぜ逃げなかったのか。
 林の中でその中の状況がよくわからず崩落などが発生している可能性がある斜面と、開けているが急な斜面の裏山に逃げるのかどうか判断にせまられることになる。「なぜあそこに逃げなかったのか」というのは簡単だが、現地を自身の目で見てその判断を自分ができるかというと難しいと感じた。地域住民も少なからず避難していたとのことなので、お年寄りから小学校低学年までの行動力に難がある人々の運命を抱えた中で、学校の教員がそこに避難するのを諦めたのは理解できなくもない。ましてや当日の天候は雪であり、滑る可能性があるなどなおさら判断が慎重になった可能性がある。
 誰が悪かったのか。
 過去全く経験も記録もないような大津波なのだ。それに対しきちんと対応できなかったことを行政や教員に求めるのは酷であると思う。しかしながら、裁判では学校と市教委に過失があったと認定された。その中で、「市の広報車が避難呼びかけた中で津波が来ることを予見できた(仙台地裁)」「校長らは、地域住民よりもはるかに高いレベルの知識に基づいてハザードマップの信頼性を検討すべきだった(仙台高裁)」と判決に記された。もちろん、避難計画の不備などはあったと思う。その一方で「(市が正しいと示した)ハザードマップの信頼性を検討」とは教員達に対し、非常な酷な要求ではないだろうか。
 誰も悪くない、次に同じことが起きた時に同じことにならないように、しっかり準備するべきであると個人的に思うが、そうもいかないようだ。一体、どこまでのことを想定すれば良いのだろうか。きりがないように思える。
 亡くなった人々に、合掌。
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災害と言うべきなのか、事故と言うべきなのか。


復興の象徴となる常磐線開通はもうすぐ

 富岡町のことについては以前書いた。

 現在も、状況はあまり変わらない。人口は増えず、街に戻る人もそれほど変わらず。ただ、今年の3月にまた一つの大きな出来事がある。常磐線の運転再開だ。これにより、震災によって傷ついた鉄路がすべて、何らかの形で復旧することになる。

 東日本大震災の被災地の中で、福島県沿岸部というのはちょっと毛色が違う。
 それはもちろん、長いこと元の場所で暮らすことが許されない地域であるからだ。それは今も続いていることであり、常磐線が運転再開しても規模が縮小されるとはいえ、そのような地域が今後も少なからず残ることになる。
 意味がないと言う人がいるかもしれない。
 それでも、鉄道が再び走るということは復興への一歩であり、それは復興の一つの大きな大きな象徴である。
 その一方で、これからも東日本大震災でおきた事故からの復興を目指す現場がある。今回紹介するのはそれを伝える施設である。


福島第一原子力発電所を学ぶ場

 福島第一原子力発電所の事故により、使えなくなった原子力発電所の廃炉作業が今も続いている。セキュリティの関係上、また放射線量の関係上、今はまだ気軽に福島第一原子力発電所を見学することはできない。ただ一体どのようなことがあの場所であの時おきて、今、何が行われているのか、あの原子力発電所で発電された電力を使っていた我々は知る必要があるだろう。
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 富岡町の新しいショッピングモール、さくらモールの道路挟んだ向かい側に、やけに西洋的な外観をした建物がある。この建物は元々東京電力エネルギー館という原子力発電所などのPR施設だった。震災後は閉鎖されており、福島第一原子力発電所へ向かう通勤バスの乗り場になっていた。
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 現在もその役割を果たしているが、それだけでなく2018年11月に福島第一原子力発電所事故において、何があったのか詳しい情報提供や廃炉事業の現状を知ることができる施設として、この建物を再利用して東京電力廃炉資料館がオープンした。       
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 入ってすぐに東京電力社長のおことばに出迎えられる。事故を起こしたことを反省している、その教訓を残す、そして現在を伝えるというのがその主旨だ。
 事故というものは事前に安全性を高めても、どうしても起こってしまう。我々はそこから何が原因だったか、どうすれば防げるのかを学ばなければならない。この場合に個人の責任を追及することに意味はない。最も重視するべきことは、もう二度と同じような事故を起こしてはならないということである。


原子力発電所のあの時、あれから、今、今後。

 まず当日の地震発生直後から原子力発電所事故に至るまでをまとめた映像を見る。
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 そして、さらに細かく一体何が現場でおきていたのか、どのように対応したのか、細かく紹介するコーナーがある。時間毎にどのような状況であったか、どのような対応をしたのか、全ての原子炉の状況がわかるようになっていた。
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 途中には各原子炉を囲う建屋の模型もある。
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 それぞれ全く形が違うのが興味深い。
 事故からえられた教訓や反省も展示していた。
 後半はこれから福島第一原子力発電所はどのように廃炉にしていくのか、今どのような状況なのか紹介するコーナーになっている。
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 福島第一原子力発電所で働く人の数、4,160人。
 平均的な数字ということだが、これから廃炉に向けて段階が進む毎に増えたり減ったりするのだろう。まさに、福島第一原子力発電所の今を示す。その他にもロードマップを示し、今どの段階にあるのか原子炉毎に表示してある。もちろん、これらは段階が進む毎に変わる。今を示すという意味で常に新しい情報を知らせることができるよう工夫されていた。
 あくまで、ここは東京電力の施設である。展示内容が一方的であるとか住民への被害の状況などに関する展示がないことなど、批判する人もいる。ただ、福島第一原子力発電所でおきたことや現在、そして今後のことを説明することが第一であり、限られた展示スペースの中でかなり充実していると思う。映像系の展示が多いこともあって、じっくり見ると2時間程度かかるだろう。それだけ見応えがある。


双葉警察署の被災パトカー

 東京電力廃炉資料館の近くの公園には、津波によって被災したパトカーが展示されていた。
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 クラウンのパトカーだけど、原型を留めていない。
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 このパトカーに乗車して、津波の避難誘導を行っていた警察官2名は沖に流され殉職した。1名は30km離れた沖合で発見され、もう1名は現在も見つかっていない。
 見学した当時は公園に置かれていたが、現在は町が整備する震災と原子力事故のアーカイブ施設で展示するために修復を行っているという。アーカイブ施設は2021年夏頃オープンする予定だ。
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 地震の後、テレビで見た津波到達予想時刻は10分後だった。


荒野の中に佇む校舎

 東京日本橋から仙台まで、太平洋沿岸を走る国道6号。
 相馬から先仙台空港近くまでは、この国道6号よりさらに海沿いに福島宮城県道38号が走る。この県道38号は国道6号よりも信号が少ないため、抜け道として使いやすい。
 もちろん、国道6号よりも海沿いということは、津波の被害を大きく受けた地域でもある。
 農地の復旧工事が行われていて、荒涼とした風景が続く中を県道38号は走る。常磐線と平行していたはずだが、内陸に移設された為、その姿はない。その中で突然大きな建物が見えてくる。
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 山元町立中浜小学校である。正確にはその旧校舎だ。
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 遠くから見ると、きちんと建っているように見えるが、近くで見ると窓ガラスの多くがなくなっている。
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 当然、この校舎は津波によって大きな被害を受けた。


津波到達予想時刻まで10分

 大きな地震の後、大津波警報が発令された。
 テレビをつけると到達予想時刻まで10分だった。
 事前に訓練していた避難場所(坂元中学校)まではどんなに急いでも20分はかかる。
 とても間に合わない。

 地域住民の方も避難してくる。
 全員で屋上に避難することにした。屋上には倉庫がある。
 児童・職員・地域住民合わせて約90名が避難し、一晩を過ごす。

 元々の防災意識の高さ、前々日の前震によって、このような瞬時の判断ができた。


津波は2階の天井まで来た

 実際には地震発生から1時間後に津波が到達した。
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 津波は2階建ての建物の2階まで到達した。
 当然2階の窓ガラスもなくなっている。
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 入れないように金網が設置されているところから中を覗く。
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 全てのものを洗い流すかのように、津波が襲った。
 もちろん、瓦礫が多数流れ着いたのだが、それはきれいに清掃されている。
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 窓ガラスを割っただけでなく、サッシももろとも流していった。
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 重要なものが入っていたであろう金庫も破壊されている。


裏に回ると倒れた時計塔

 校舎の裏に回る。
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 倒れた時計塔が目に入る。
 よくこの校舎が耐えられたなというのが感想。
 手前には破壊された「中浜小学校」の校標が。
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 唯一規制されていなかった階段から2階部分を見る。
 音楽教室のあたりは比較的浸水深が低かったとされる場所。
 それでも、おそらく白い壁のシミぐらいまでは浸水したんじゃなかろうか。
 もし、2階に避難するという判断をしていたら、完全にアウトだった。
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 昇降口から中を見る。
 やはり大きな力によって様々なものがひしゃげている。
 その一方で壁に張り付いていた下駄箱は無事だった。
 壁がある場合、力のかかり具合が違うのだろうか。
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 ここは職員室だろうか。
 黒板に書かれた児童数、担任名が妙に生々しく見える。
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 そして流されてきたものが柱に絡みついていた。


瞬時の判断が生死を分ける

 こちらの小学校は瞬時の判断で命を落とすことがなかった。
 ・10分しかないので指定避難所に逃げるのは不可能という判断ができたこと。
 ・屋上に屋根裏の物置部屋があるという装備と知識。
 ・いつでも津波は来るという危機感の共有。
 これらによって、全ての命が救われた。

 でも、それができなかった学校もある。それはまた近いうちに書きたいと思う。
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高さ17mもの津波が海辺に建つホテルを襲った。


震災遺構「たろう観光ホテル」

 今回紹介するのは東日本大震災における災害遺構で確実に北の大物というべき物件。
 宮古市北部の田老という街にそれは存在する。震災遺構「たろう観光ホテル」だ。
 たろう観光ホテルは1986年にオープンした観光旅館。地上6階建てで、それほど高い建物がない田老ではシンボルになるような建物だ。
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 震災前の姿を残す写真。
 このたろう観光ホテルは東日本大震災の震災遺構の保存に、初めて国費が投入された物件である。
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 震災による津波で1階から2階部分の壁などは全て抜け落ちて、鉄骨だけの状態になっている。


津波は全てを押し流す

 この6階建ての建物を見上げる。
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 見上げると3階部分の窓がない。
 2階の天井ですら高いのだ。高さ17mにもなる津波がここに来たのだ。2階だけでなく、3階も壁の一部が破壊されて、窓ガラスがなくなっている。
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 東側に回ると3階部分の壁が大きくなくなっている。
 おそらくこちらの方向から波が入ってきたのだろう。
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 ものすごい勢いで流れた津波は全てを押し流した。
 エレベーターの籠もかなりの力で押されたせいかひしゃげてしまっている。
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 1階部分で残っているのは鉄骨と階段、エレベーターの籠と枠だけだ。もちろん全てを押し流した結果、ここには大量の瓦礫が山積みとなった。いまではきれいに撤去されている。
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 震災によって地殻変動が起きて、2.18m動いたことを示す看板。一等登記基準点がここにあったが、2.18m東南方向に移動し、高さは0.31m下がった。震災により大きく地殻変動が起きた。あまり気づいていないけど、震災とその後の地殻変動で東京でも数cmから数十cm単位で動いている。
 残念なことに元の位置と新しい位置の写真を撮り忘れてしまった。


内部見学ができる

 このたろう観光ホテルの特徴として、内部が見学できる。
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 ただし、予約する必要がある。詳細はホームページで確認して欲しい。

 年に何回か(一度だけ?)、無料見学日があるので、それに参加してみた。
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 内部の見学はこの外にある非常階段を上がる。
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 もちろん修復されているが、被害を受けた階段を上がる。
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 客室の畳は剥がされていたが、テレビや冷蔵庫、金庫などはそのまま置かれていた。
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 こう見ると何も影響が無かったように見える。
 それは高いところだったからであって、下は地獄である。
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 エレベーターも至って普通だ。
 まぁ、内部見学しても被害に遭ってない部分を見ても仕方がないっちゃー仕方がないのだけど、階段を上がっていくときにこの高さまで津波が来たと思うと、恐ろしさをイヤというぐらい実感できる。
 内部では震災当時の津波が来ているところの映像が流されており、その場で津波が来たときと平常時の違いが実感できるようになっている。この映像は撮影禁止なので、ここに来て見るしかない。
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 三陸地方は、地震が来れば津波に何度も襲われてきた。津波に対する防災意識は高い方だったと言える。このような張り紙もなされていた。小さい頃からそういった教育を受けてきたはずなのだけど、あれだけ多くの犠牲者がでてしまった。津波に対する防災意識はいくらあっても足りない。


近くにあるJFたろう製氷貯氷施設

 近くの港には漁協の製氷貯氷施設がある。
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 ここには明治、昭和、平成の各津波の高さが書かれている。
 昭和三陸津波が10m、明治三陸津波が15m、平成の東日本大震災津波が17.3m。
 これだけの高さで津波はやってくる。勢いをつけてやってくる。しかもそれは波が高いのとは確実に違う。海面が上昇して押し寄せるのだ。その津波の前で人間は無力である。とにかく、逃げるしかない。一刻も早く、高いところへ。心配になって戻ってはいけない。きっと逃げているはずだ。そう信じて、逃げるしかない。
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