東日本大震災で多くの駅が被災し、跡形もなくなった。
けれど、わずかながらも被災した姿を残している駅がある。
今回は、その駅を紹介する。
海沿いを走るJR仙石線の松島海岸と石巻のほぼ中間に、野蒜(のびる)という駅がある。
震災前この駅では日中必ず列車同士の行き違いが行われていた。震災当時もこの駅で上り下り双方の電車が発車した後、地震が起こった。下り快速電車の3353Sは野蒜駅発車直後、たまたま高台に停車したため無事だった。この場所で停車し避難しなかったことで、犠牲者はでなかった。一方、上り普通電車の1426Sは平地に停車したため、津波によって流された。流された仙石線の映像を見た人も多いと思う。上り電車の乗客は津波が来る前に近くの小学校に避難していたが、そこも津波に襲われた。
JR仙石線はこの震災で大きな被害を受けた地域について、別線での復旧を行った。そのため、新しくできた高台の住宅地に線路も駅も移ることになったため、元々の野蒜駅は廃止された。
そんな命運を分ける上下行き違いが行われた旧・野蒜駅は現在東松島市震災復興祈念公園として整備され、公開されている。
そんな野蒜駅に震災から2年7ヶ月後に訪問した。
この時、駅前では近所の方々がお茶会を開いていた。
話を聞くと仙石線の移設反対運動をしているという。
この時野蒜周辺では高台に街自体を移転し、線路も移設するという計画が持ち上がっていた。仙石線の復旧は街の移設とセットである。仙石線が高台に移設されるということは、造成工事を行う時間の分、再建が年単位で遅れることになることを意味する。その場で復旧するならば、住民もその場で今すぐにでも自宅を再建することができるのに。
駅舎から裏手に回り、ホームを見る。
細かい砂に覆われているのがわかる。津波で流されてきた砂だ。
当然、津波の勢いは強かったものの、ホームや上屋、駅舎自体も被害はあるもののその場にとどまることができた。
しかし、すでに移設が決定していたため、ここに電車が来ることはもうない。
復旧することはないので、何も手が付けられていない状態だった。
あの時から5年が過ぎた。
この5年間の間に、仙石線は内陸部に移転し、新しい野蒜駅ができた。
仙石線の運行形態も大きく変わった。仙石東北ラインの開通に伴い高城町から仙台間は東北本線でショートカットする列車の運転も始まった。
それでも、5年前に見た駅舎はその場所に残っていた。
各自治体1カ所のみ震災遺構を保存整備する費用が国から援助されるため、東松島市はこの旧・野蒜駅を保存することに決め、震災復興メモリアルパークとして整備された。
裏手に回るとホームと線路が残っていた。
以前の写真と比べると、きれいに整備されている。
反対側に移動すると津波で流された線路を残っている。
なぎ倒された電柱も見える。
しかし、ある意味きれいすぎる状態での保存である。
あまりにもきれいすぎて、津波の威力を実感させる力が減ってしまっている気がしなくもない。
野蒜駅の駅舎だった建物は現在、改装されて「震災伝承館」として使われている。
震災当日の映像や東松島市の被害状況などの展示があり、津波で破壊された野蒜駅の自動券売機なども展示されている。仙石線の被害についても詳しくまとめられていた。報道写真が多用されているため、館内の写真がないのはご容赦願いたい。
駅周辺にはまだいくつか家が残っている。
高台への移転に反対した人々なのだろうか。
復興への考え方の違いは、地域を分断し住むところすらバラバラになってしまったのだった。
けれど、わずかながらも被災した姿を残している駅がある。
今回は、その駅を紹介する。
JR仙石線野蒜駅
海沿いを走るJR仙石線の松島海岸と石巻のほぼ中間に、野蒜(のびる)という駅がある。
震災前この駅では日中必ず列車同士の行き違いが行われていた。震災当時もこの駅で上り下り双方の電車が発車した後、地震が起こった。下り快速電車の3353Sは野蒜駅発車直後、たまたま高台に停車したため無事だった。この場所で停車し避難しなかったことで、犠牲者はでなかった。一方、上り普通電車の1426Sは平地に停車したため、津波によって流された。流された仙石線の映像を見た人も多いと思う。上り電車の乗客は津波が来る前に近くの小学校に避難していたが、そこも津波に襲われた。
JR仙石線はこの震災で大きな被害を受けた地域について、別線での復旧を行った。そのため、新しくできた高台の住宅地に線路も駅も移ることになったため、元々の野蒜駅は廃止された。
そんな命運を分ける上下行き違いが行われた旧・野蒜駅は現在東松島市震災復興祈念公園として整備され、公開されている。
野蒜駅2013
そんな野蒜駅に震災から2年7ヶ月後に訪問した。
この時、駅前では近所の方々がお茶会を開いていた。
話を聞くと仙石線の移設反対運動をしているという。
この時野蒜周辺では高台に街自体を移転し、線路も移設するという計画が持ち上がっていた。仙石線の復旧は街の移設とセットである。仙石線が高台に移設されるということは、造成工事を行う時間の分、再建が年単位で遅れることになることを意味する。その場で復旧するならば、住民もその場で今すぐにでも自宅を再建することができるのに。
駅舎から裏手に回り、ホームを見る。
細かい砂に覆われているのがわかる。津波で流されてきた砂だ。
当然、津波の勢いは強かったものの、ホームや上屋、駅舎自体も被害はあるもののその場にとどまることができた。
しかし、すでに移設が決定していたため、ここに電車が来ることはもうない。
復旧することはないので、何も手が付けられていない状態だった。
野蒜駅2018
あの時から5年が過ぎた。
この5年間の間に、仙石線は内陸部に移転し、新しい野蒜駅ができた。
仙石線の運行形態も大きく変わった。仙石東北ラインの開通に伴い高城町から仙台間は東北本線でショートカットする列車の運転も始まった。
それでも、5年前に見た駅舎はその場所に残っていた。
各自治体1カ所のみ震災遺構を保存整備する費用が国から援助されるため、東松島市はこの旧・野蒜駅を保存することに決め、震災復興メモリアルパークとして整備された。
裏手に回るとホームと線路が残っていた。
以前の写真と比べると、きれいに整備されている。
反対側に移動すると津波で流された線路を残っている。
なぎ倒された電柱も見える。
しかし、ある意味きれいすぎる状態での保存である。
あまりにもきれいすぎて、津波の威力を実感させる力が減ってしまっている気がしなくもない。
震災伝承館
野蒜駅の駅舎だった建物は現在、改装されて「震災伝承館」として使われている。
震災当日の映像や東松島市の被害状況などの展示があり、津波で破壊された野蒜駅の自動券売機なども展示されている。仙石線の被害についても詳しくまとめられていた。報道写真が多用されているため、館内の写真がないのはご容赦願いたい。
駅周辺にはまだいくつか家が残っている。
高台への移転に反対した人々なのだろうか。
復興への考え方の違いは、地域を分断し住むところすらバラバラになってしまったのだった。