この震災遺構は2度襲われた。
震災から11年目の春、新しい震災遺構がオープンした。
石巻市立門脇小学校が震災遺構としての整備を終え公開したのだ。
私がこの場所に初めて来たのは2018年の冬。
このときはまだ保存するかどうか決まっておらず、仮囲いに覆われた状態だった。周辺は何も無かった。そう、本当に何も無かった。震災前、ここには家々がみっちりと建っていたというのに。
次に来たときは2021年の秋。
災害遺構としての整備工事が進んでいた。周辺には大きな大きな津波復興祈念公園ができた。家は戻らなかった。
そして、2022年4月に石巻市震災遺構門脇小学校としてオープンした。
この震災遺構の特徴としてはなによりも、津波に襲われたことだけでなく、それによって発生した火災によって焼失したことである。津波は圧倒的な量の海水で押し流すだけではなく、様々な可燃物が流れて発火することもある。発火したものが流れることによりさらに火災が拡大していくこともある。
もともと体育館だった場所が展示施設となっており、ここから入場することになる。
もともと体育館……とはいえかなり改造されている。
震災遺構となった校舎を横目に見ながら入場。
津波で流された消防団の消防車。
そして乗用車も展示されている。様々な場所で展示されている津波で流された自動車だが、どれも共通しているのはぐしゃっとなっているところ。インパクトはあるのだけど、「いや、それって交通事故でもそうなるやん」というツッコミをしてはいけない。
順路としてはこの自動車をチラ見してすぐに外がに出る。
それではいよいよ本校舎へ。
津波浸水高の表示。おおよそ1階部分の中程程度まで浸水した。ただ、1階部分がすでに高くなっているので、地面からの高さで言えば1階分相当ぐらいあるだろうか。
ここは校長室。
中央に見えるロッカーは金庫だった。
卒業式1週間前だったため、金庫内には卒業証書が保管されていた。このような状況ではあったが、金庫は浸水を免れ、火災でも中身を守ったため、無事だった卒業証書は4月に延期された卒業式で卒業生に手渡されている。金庫ってすごいなというのが素直な感想。
津波の被害に遭い、室内は散乱しているし、堆積物もある。その上火災で焼失している。
2階に上がってこちらは少人数指導室。
津波によって流されている自動車や住宅に火がつき、やがてそれは門脇小学校を襲う。あるいは流されてきてから出火したものもあったかもしれない。いずれにせよ、津波で発生した火災は校舎へ燃え移った。机がそのままになっていることからもわかるとおり、この場所は津波で浸水はしていない。しかし、燃えた。
3年2組の教室。理科の授業でスペースを作るために机と椅子は後ろに下げていたらしい。床一面には焼け落ちた天井材が散らばっている。学校において地震の時の防災訓練ではまず机の下に潜るというのが定石である。しかし、このとき机は後ろに下げていた。地震の時は真ん中に集まって耐えたという。
右に見える向かい合った椅子が、切なさを増幅させた。
3階に上がって、4年2組の教室。もちろんここも燃えた。
不燃物の金属部分しか残っておらず、木材の部分はすべて焼失してしまっているのがわかる。
大きな地震が発生したとき、津波の発生が予想されたとき、高い建物を目指して避難したとき、このような火災が発生したらどうなるのか想像してほしい。
焼失した校舎の次はその後ろに建っている特別教室棟へ。
こちらは焼失せず、改修されて様々なものを展示している。
こちらは門脇小学校の1階中央昇降口に置かれていた柱時計。
津波によって40m先の会議室で見つかった。
こちらは焼失した教室の机と椅子。
浸水した黒板。
どこまで浸水したのか一目瞭然だ。
こちらは焼失したオルガン。
火災による熱の威力を感じる。
この地域は石巻市内で津波による死者・行方不明者や被害が最も集中した場所である。海から進入した津波と旧北上川を遡上してあふれた津波がぶつかり合い、津波の水深や流速が速かったと推定されている。
当日のこの場所での避難行動についてまとめられている。
門脇小学校では地震発生後およそ10分で、児童と教職員が校庭に避難している。そしてその5分後には裏山である日和山への避難を開始した。これは同じ石巻市内の大川小学校とは違い、避難訓練においても日和山へ避難するようになっていたため、意思決定でもめることなく避難開始している。このようにすぐに避難できたため、すでに下校していた7名を除き在校していた児童は全員無事であった。
児童は全員避難していたものの、一部の教職員や住民が残っていた。
校舎に残っていた人々は津波と、津波によって火がついた家屋などが押し寄せてくるのが見えたため、脱出を模索し始めた。そして、教室にある教壇を校舎の2階と裏山の間にかけて橋にして避難することにした。写真の屋根部分と右側の雑木林部分に教壇を置いてその上を渡ったのだ。
体育館にいた人々もいた。この人たちは、先ほどの人たちが教壇で作った橋を見つけ、崖に立てかけることによって登って裏山に逃げることができた。
ここで起きた出来事から考えられるのは、津波の発生が予想されるときはできるだけ内陸の地形的に高い場所に逃げることが第一であるということ。それは火災が発生するかもしれないこと、火災が発生しなくても津波による水はしばらく引かないので孤立状態が長期化することがあるからだ。それが不可能な場合には鉄筋や鉄骨コンクリートのビル(いわゆる硬い建物)の上層階に逃げると考えるのがいいだろう。
門脇小学校においては避難行動がうまくいった。ところがこの地域では別の悲劇もあった。その話はまた別の震災関連施設について記事にするときに述べたい。
震災復興に向けて、まずは住居の確保から。
この震災遺構の体育館では仮設住宅が展示されている。
当時このような仮設住宅がたくさん建てられた。
私も住んでいたことがあるので懐かしい。
夏暑く、冬寒い仮設住宅は決して住みやすいものではない。
ちなみに4畳半2部屋+台所で3~4人が暮らすのは普通であった。
防音性は皆無で暮らすのは大変である。でも、みんな大変だった。
もうね。ずるいよね。
こんなん書いてある仮設住宅をわざわざ移設してくるんだから。
仮設住宅の展示を見るときは、ここに一人で暮らしていたと思わないでほしい。ここで暮らしていたと思う人数の2~3倍の人々が住んでいたと思ってほしい。そうすればいかに過酷だったかわかる。
さて、展示施設はこれにて終了。
最後は外から建物の周りを歩く。
右側の樹はイチョウだ。震災前から生えていたイチョウは火災によって黒く焼け焦げたものの、その根元から新しい芽が生えて復活している。黒く焼け焦げた幹を守るようにして生えている。
校舎の西側に回ると、3階は焼失しているが、1階2階は焼失していないことがわかる。
たしかに焼失していないが、津波の被害は受けているので堆積物はあった。
同じことに繰り返しになってしまうが、津波が来るかもしれないときには「高いところに逃げればいいというわけではない」ということである。なるべく海から離れた高台に逃げるべきであり、ビルの上階に逃げるのは高台への選択肢がない場合に陰るべきだ。ビルの上階の場合、火災が発生したり火災が発生しなくても孤立状態が長引くことが考えられる。そのことを教えてくれる施設だった。
2つの災害に襲われた震災遺構
震災から11年目の春、新しい震災遺構がオープンした。
石巻市立門脇小学校が震災遺構としての整備を終え公開したのだ。
私がこの場所に初めて来たのは2018年の冬。
このときはまだ保存するかどうか決まっておらず、仮囲いに覆われた状態だった。周辺は何も無かった。そう、本当に何も無かった。震災前、ここには家々がみっちりと建っていたというのに。
次に来たときは2021年の秋。
災害遺構としての整備工事が進んでいた。周辺には大きな大きな津波復興祈念公園ができた。家は戻らなかった。
そして、2022年4月に石巻市震災遺構門脇小学校としてオープンした。
この震災遺構の特徴としてはなによりも、津波に襲われたことだけでなく、それによって発生した火災によって焼失したことである。津波は圧倒的な量の海水で押し流すだけではなく、様々な可燃物が流れて発火することもある。発火したものが流れることによりさらに火災が拡大していくこともある。
それでは入場
もともと体育館だった場所が展示施設となっており、ここから入場することになる。
もともと体育館……とはいえかなり改造されている。
震災遺構となった校舎を横目に見ながら入場。
津波で流された消防団の消防車。
そして乗用車も展示されている。様々な場所で展示されている津波で流された自動車だが、どれも共通しているのはぐしゃっとなっているところ。インパクトはあるのだけど、「いや、それって交通事故でもそうなるやん」というツッコミをしてはいけない。
順路としてはこの自動車をチラ見してすぐに外がに出る。
本校舎へ
それではいよいよ本校舎へ。
津波浸水高の表示。おおよそ1階部分の中程程度まで浸水した。ただ、1階部分がすでに高くなっているので、地面からの高さで言えば1階分相当ぐらいあるだろうか。
ここは校長室。
中央に見えるロッカーは金庫だった。
卒業式1週間前だったため、金庫内には卒業証書が保管されていた。このような状況ではあったが、金庫は浸水を免れ、火災でも中身を守ったため、無事だった卒業証書は4月に延期された卒業式で卒業生に手渡されている。金庫ってすごいなというのが素直な感想。
津波の被害に遭い、室内は散乱しているし、堆積物もある。その上火災で焼失している。
2階に上がってこちらは少人数指導室。
津波によって流されている自動車や住宅に火がつき、やがてそれは門脇小学校を襲う。あるいは流されてきてから出火したものもあったかもしれない。いずれにせよ、津波で発生した火災は校舎へ燃え移った。机がそのままになっていることからもわかるとおり、この場所は津波で浸水はしていない。しかし、燃えた。
3年2組の教室。理科の授業でスペースを作るために机と椅子は後ろに下げていたらしい。床一面には焼け落ちた天井材が散らばっている。学校において地震の時の防災訓練ではまず机の下に潜るというのが定石である。しかし、このとき机は後ろに下げていた。地震の時は真ん中に集まって耐えたという。
右に見える向かい合った椅子が、切なさを増幅させた。
3階に上がって、4年2組の教室。もちろんここも燃えた。
不燃物の金属部分しか残っておらず、木材の部分はすべて焼失してしまっているのがわかる。
大きな地震が発生したとき、津波の発生が予想されたとき、高い建物を目指して避難したとき、このような火災が発生したらどうなるのか想像してほしい。
特別教室棟(展示館)
焼失した校舎の次はその後ろに建っている特別教室棟へ。
こちらは焼失せず、改修されて様々なものを展示している。
こちらは門脇小学校の1階中央昇降口に置かれていた柱時計。
津波によって40m先の会議室で見つかった。
こちらは焼失した教室の机と椅子。
浸水した黒板。
どこまで浸水したのか一目瞭然だ。
こちらは焼失したオルガン。
火災による熱の威力を感じる。
この場所の出来事
この地域は石巻市内で津波による死者・行方不明者や被害が最も集中した場所である。海から進入した津波と旧北上川を遡上してあふれた津波がぶつかり合い、津波の水深や流速が速かったと推定されている。
当日のこの場所での避難行動についてまとめられている。
門脇小学校では地震発生後およそ10分で、児童と教職員が校庭に避難している。そしてその5分後には裏山である日和山への避難を開始した。これは同じ石巻市内の大川小学校とは違い、避難訓練においても日和山へ避難するようになっていたため、意思決定でもめることなく避難開始している。このようにすぐに避難できたため、すでに下校していた7名を除き在校していた児童は全員無事であった。
児童は全員避難していたものの、一部の教職員や住民が残っていた。
校舎に残っていた人々は津波と、津波によって火がついた家屋などが押し寄せてくるのが見えたため、脱出を模索し始めた。そして、教室にある教壇を校舎の2階と裏山の間にかけて橋にして避難することにした。写真の屋根部分と右側の雑木林部分に教壇を置いてその上を渡ったのだ。
体育館にいた人々もいた。この人たちは、先ほどの人たちが教壇で作った橋を見つけ、崖に立てかけることによって登って裏山に逃げることができた。
ここで起きた出来事から考えられるのは、津波の発生が予想されるときはできるだけ内陸の地形的に高い場所に逃げることが第一であるということ。それは火災が発生するかもしれないこと、火災が発生しなくても津波による水はしばらく引かないので孤立状態が長期化することがあるからだ。それが不可能な場合には鉄筋や鉄骨コンクリートのビル(いわゆる硬い建物)の上層階に逃げると考えるのがいいだろう。
門脇小学校においては避難行動がうまくいった。ところがこの地域では別の悲劇もあった。その話はまた別の震災関連施設について記事にするときに述べたい。
仮設住宅(体育館)
震災復興に向けて、まずは住居の確保から。
この震災遺構の体育館では仮設住宅が展示されている。
当時このような仮設住宅がたくさん建てられた。
私も住んでいたことがあるので懐かしい。
夏暑く、冬寒い仮設住宅は決して住みやすいものではない。
ちなみに4畳半2部屋+台所で3~4人が暮らすのは普通であった。
防音性は皆無で暮らすのは大変である。でも、みんな大変だった。
もうね。ずるいよね。
こんなん書いてある仮設住宅をわざわざ移設してくるんだから。
仮設住宅の展示を見るときは、ここに一人で暮らしていたと思わないでほしい。ここで暮らしていたと思う人数の2~3倍の人々が住んでいたと思ってほしい。そうすればいかに過酷だったかわかる。
最後に外から
さて、展示施設はこれにて終了。
最後は外から建物の周りを歩く。
右側の樹はイチョウだ。震災前から生えていたイチョウは火災によって黒く焼け焦げたものの、その根元から新しい芽が生えて復活している。黒く焼け焦げた幹を守るようにして生えている。
校舎の西側に回ると、3階は焼失しているが、1階2階は焼失していないことがわかる。
たしかに焼失していないが、津波の被害は受けているので堆積物はあった。
同じことに繰り返しになってしまうが、津波が来るかもしれないときには「高いところに逃げればいいというわけではない」ということである。なるべく海から離れた高台に逃げるべきであり、ビルの上階に逃げるのは高台への選択肢がない場合に陰るべきだ。ビルの上階の場合、火災が発生したり火災が発生しなくても孤立状態が長引くことが考えられる。そのことを教えてくれる施設だった。