小学校以外何も無くなった。


東日本大震災の災害遺構の多くは学校

 国土交通省東北地方整備局では大きなものから小さなものまで、東日本大震災の災害遺構や伝承施設などの情報を集約して公開している。

 このページを見ていて気づくことは、東日本大震災における規模が大きい災害遺構の多くは学校であることが多いということである。推測にはなるが、これはやはり個人所有の施設ではなく、元々地方自治体が所有する施設であるということが保存のしやすさにつながっているのだろう。
 いままで私が紹介している東日本大震災の災害遺構も大規模なものは学校が多い。
 今回は仙台市が保存する東日本大震災の災害遺構を紹介する。
 なお、写真は私が訪問した2018年12月のものである。


海の近くの小学校

 仙台市営地下鉄東西線の東の終点荒井駅からバスに乗ってさらに東へ。
 バスの終点が「震災遺構仙台市立荒浜小学校」である。
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 この荒浜小学校は1873年開校。この場所に移ったのが1912年で、長い長い歴史を持つ小学校である。
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 この場所に小学校ができて100年を目前にして震災が起きる。震災後は校舎が使えなくなったため、東宮城野小学校の校舎を間借りして授業を行った。しかし、児童数の減少に伴い2016年に閉校した。
 この津波被害に遭った施設は2017年より一般公開がなされている。
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 校庭は大きな駐車場になったが、その一角には津波によってなぎ倒された二宮金次郎像がある。
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 外から見ると2階部分まで津波が来ていることがわかる。
 やはり、海側に面している東側の破壊度合いが大きい。


1階

 津波によって被害に遭った校舎内部。
 当然ではあるが1階の損傷は大きい。天井が破壊されている。
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 当然、津波がやってきた後、ここには多くの瓦礫が散乱していたはずである。きれいに片付けられてしまっているので、写真によってどういった状況だったのが想像でいるようになっている。
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 ただ、何も無い空間がどうしても嘘っぽさというか、リアルでない感じがしてしまう。
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 瓦礫で埋め尽くされていた階段を上り2階へ。


2階

 2階に上がって廊下を見るとどこまで津波がきたのか一目でわかった。
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 右側のロッカーを見るときれいにその線に沿って錆びている。
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 教室内も同様の線が見えている。
 リアス式海岸でない仙台平野において津波は2階の床上程度の高さで来ている。これがリアス式海岸の三陸になると4階-5階程度まで来る。場所によって同じ津波でも高さが大きく異なる。
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 東側ではベランダのコンクリート壁がなぎ倒されている。
 水や瓦礫が押し寄せることによって破壊されたのだ。床上数十センチの津波でも、瓦礫と一緒に来るとコンクリートがなぎ倒されるほどの威力を持つのだ。


なくなった集落

 4階はこの荒浜地区の紹介コーナーになっている。震災前の姿がわかる。
 そして、屋上に上がって周囲を見る。
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 校舎南側。人家は見当たらない。小学校があったのに。
2008
 これは2008年に国土地理院が撮影した空中写真である。
 荒浜小学校はこの写真の中央上部にある。校庭やプールがわかりやすく見えるだろう。
 このように荒浜小学校の周囲には多くの住宅が存在した。
2011
 震災直後に撮影された空中写真ではほぼすべての家が流された。
2020
 そして2020年の空中写真においても住宅はない。
 これはこの地域が災害危険区域に指定されて住宅を建てることができなくなったためである。ということはもうここに住民が戻ってくることはないので、この荒浜小学校は廃校となった。


なくなった住宅の基礎は残っている

 さて、この荒浜小学校から東に進んだところにはもう一つの災害遺構がある。
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 ここが「震災遺構仙台市荒浜地区住宅基礎」である。
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 かつてこの場所で生活が営まれていた証である。
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 荒涼としてしまった場所がただただ悲しさを増幅させる。


災害遺構の公式ホームページ