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カテゴリ: 東北

津波への備えはあったけれど。


今回は正直地味な遺構

 震災遺構が各地に整備されてきて、正直派手な物と地味な物がある。
 今回紹介するのは正直言って地味である。地味であるけれど、そこには大きな教訓がある。
 場所は久慈と宮古のほぼ中間に位置する岩手県田野畑村。ここには明戸海岸という観光地があった。海岸とそれに付随してキャンプ場や野球場などが設置されており、さけの孵化場もあった。
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 私が行ったときには静かな海だけがあった。津波で建物を、人々を、全てを飲み込んだとは思えない、静かな静かな海だった。


ズタズタに破壊された防潮堤

 明戸海岸にある9mの高さがあった防潮堤は震災による津波によって破壊され、津波はさらに背後の集落に向かって進んでいった。さけの孵化場もキャンプ場も野球場も飲み込んで津波はさらに奥にあった明戸の集落まで襲った。最大遡上高は25.5m。最大遡上高とはその海抜の高さまで津波が来たということであり、津波の高さとは違う。あくまで勢いで陸地を遡っていくため、陸地が高くなれば津波も高くなるということである。この時の津波の高さは推定17.1m。高さ9mの防潮堤をあっさりと越えた。
 ここからわかることは「津波の高さ6mだから海抜6m以上の場所にいれば平気」ということにはならないということだ。最大遡上高は25.5mなのだから、そこまで津波は上がってくる。もちろん頑丈な高さのある建物に避難できるならいいが、そうでなければとにかく海から遠くに逃げることだ。「海から離れること」と「なるべく高い建物や場所に逃げること」が重要である。
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 この地にはその破壊された防潮堤の一部が保存されている。
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 頑丈なコンクリートの防潮堤がズタズタに破壊されているのがわかるだろうか。
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 自然の災害の前で人工物は無力である。
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 元々あった防潮堤も少し残っていた。この断面からどれだけの高さの防潮堤があったのかがわかる。


津波は大きな物も運ぶ

 そして、津波は防潮堤を破壊するだけでなく、大きな物を運んでくる。
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 これは明戸海岸の海中に設置されていた波消しブロックである。
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 牡蠣の殻が付いていることからわかるとおり、これらは海中にあったものである。
 沖合200mと場所から8tもする物が流されてきたのだ。もちろんこれらは単独で置いてあったわけではない。積まれていたのだ。多数積まれていた物が流されて来たのである。


そして新しい防潮堤が作られた

 新しい防潮堤が元々の防潮堤よりも海岸から離れた位置に設置された。
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 新しい防潮堤の高さは12m。震災前の防潮堤の高さは9mだったので、3m高くなっている。
 一方で東日本大震災に津波の高さは推定約17.1mである。もし、東日本大震災と同じレベルの津波が発生したときにはこの防潮堤では役に立たない。しかし、この高さの防潮堤を作ることは現実的ではない。東日本大震災レベルの防潮堤を全て整備することは莫大な費用がかかるからだ。それでも、以前よりも高くすることで、津波を完全に防ぐ確率が高まり、越えた津波の勢いを減らすことができる。そして、その背後にも防潮堤以外の津波を防ぐ二重三重の仕組みが備えられている。それは遡上高を下げる、浸水区域を少なくすることに役立つのだ。

 こういうのをね、絶品というんだよ。


ジンギスカンを食べに行く

 さて、ランチを食べよう。
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 わざわざマニアックな道を選んで走っていたのでよく通行止めにあう。
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 この木の間を通り抜けて着いたところには……
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 ログハウスがあった。
 ここが今日の目的地、「ひつじや」さん。


絶品ジンギスカン屋「ひつじや」

 今日来た「ひつじや」さんは、自家飼育したサフォーク種ヒツジを使って、ジンギスカンを提供してくれるお店。
 一週間で一頭のヒツジを使い切るように調整しながら提供しているので、客数にも限りがあり、予約必須。この日は雪がかなり降っていたのでそれでたまたまキャンセルが出て滑り込むことができた。
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 まぁ、メニュー見ると「おぉう……いい値段」と思ってしまったりするが、勇気を振り絞って注文しよう。
 頼んだのは「ひつじやスペシャルジンギスカン1人前」2,750円。
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 もさっと野菜がきた。
 あんまり見たことない野菜もいる。
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 あとはお漬物。いぶりがっこがうまい。
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 そしてお肉登場!
 いや、あの、見たことないですよって感じの断面のヤツがいる!


こういうのを絶品っていうんだよ!

 さて、焼きます。
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 ここのジンギスカンは野菜を全面に載っけて、その上で蒸し焼きにするスタイル。
 肉が新鮮なので、レア~ミディアムぐらいで訳のはOK。
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 たべちゃうぞー。
 これね、マジでうまいのよ。マジ絶品。
 絶品の乱発が昨今話題だけど、こういう店にこそ絶品って使うんだよ!
 肉質がものすごい良いし、野菜もうまいの。
 正直これは4人ぐらいで行きたいし、コースにすれば良かったと後悔。
 ここは最高のジンギスカンだと思うので、もうちょっと人を連れてきて色々食べてみたい。できれば一週間前に予約必須なフルコースを食べてみたいよねぇ。

 雪がどっさり温泉に泊まる。


アメダス全国2位の積雪量

 今夜の宿は肘折温泉。
 私が一番大好きな温泉。泉質といい雰囲気といい、大好きだ。
 そしてこの温泉は雪が多い。アメダスで全国2位の積雪量を誇る(1位は酸ヶ湯温泉)。もっともアメダスがなくて雪がもっと多い温泉はあると思うんだけど、とにかく公式記録では2位。
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 こんな温泉地。この狭い路地みたいなのがメインストリートで路線バスも走る。
 雪が降る季節はどの旅館も温泉を道に流して融雪するので道路に温泉成分がこびりついてる。


久々に肘折散歩

 特に用事がある旅ではないので久々に肘折を散歩してみる。
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 狭い上に冬はこの先行き止まりなので車の運転は神経使うぜ。
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 もう暗い上に雪まみれで見にくいけどコレが橋。
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 川の中州にもどっさりと雪が積もってる。


雪が降っていないので雪下ろし

 この朝は雪が降っていなかった。
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 これ、そろそろ雪下ろししないと危ないんじゃないですかね。
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 こちらは雪下ろし中。雪を下ろしたはいいけど、このあとどうするんだろ。除雪車でも来るんだろうか。
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 こちらは旧肘折郵便局。味がある良い建物だねぇ。
 肘折温泉はやっぱり雪の季節に来るのがいいね。どっさりとした雪に囲まれた場所で温泉に入るのがいいね。雪以外の季節では朝市があったりするので、それはそれでたのしいんだけどね。


肘折からの脱出

 さて、出発しよう。
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 肘折からの出入りはこのループ橋を使う。
 この橋は2012年春に県道が土砂崩れにより通行止めになってしまい、迂回路は大型車が入れない上に、冬期通行止めになってしまうのでその年の冬までに突貫工事で仮設橋を建築。その後、次の春に本設に作り直したものである。肘折の冬はこの道を通らないと外に出られないのでとにかく時間との勝負の突貫工事だったという。この橋のおかげで以前よりもスムーズに肘折には入れるようになったのよね。
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 肘折から脱出したところもなかなかの雪。
 電話ボックスにむちゃくちゃ雪積もってるけど平気なのか?
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 2018年2月に来たときは雪の重さで電話ボックス破壊されてたけどな。
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 さぁ、また吹雪いてきた。雪の中を走るよ~。

 雪の月山道路を走ってみたかった。


雪降る月山道路を越える

 一回、雪の季節に月山道路を走ってみたかった。
 月山道路は山形と鶴岡を結ぶルート上にあり、この区間だけ山形自動車道が途切れていて、(一応)高規格道路となる月山道路によって結ばれている。が、夏でも調子に乗ると事故る危険な道路なので走ってた楽しい(おい)。
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 まぁ、そんな月山道路を走るにあたってレンタカーで来たのは2WDのヴィッツだけどな!
 フツー東北だったら4WDが標準だべよ。今まで冬に東北北海道でレンタカー借りて4WDじゃなかったのって初めてだよ。でも越えちゃうよ。
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 いやー、なかなかいい経験をしたよ。決して興味本位で走らない方がいいね。
 走行中、結構雪が降ってきて道路上が新雪だったので、そこそこ雪がタイヤにかんで滑らずに済んだ。
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 鶴岡に着くと晴れ間が見えた。
 「ママクリーニング小野寺よ」を見ると庄内地方に来た感がある。鶴岡本社で秋田から新潟にかけて猛威を振るうクリーニング店チェーン。


鶴岡ではやっぱり肉屋食堂

 さて、お昼ご飯を食べよう。
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 やってきたのは鶴岡市内の肉屋食堂。以前も取り上げたね。
 名前の通り、肉屋がやっている食堂。ここがなかなかうまい。
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 メニューはこんな感じ。
 いやー、こんなにあると迷っちゃう。でも、食べるのはステーキ丼とハンバーガーだ。


ステーキ丼

 さて、食券買って席に座って食券渡してしばし待つ。
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 着丼。
 このステーキ丼1,000円なんだけど、お値段以上。
 肉がめっちゃ柔らかいし、火の通り加減もばっちり。そしてバター醤油味のソースがたまんねー。
 これはうまいよ。でも、インスタ映え狙うならローストビーフ丼の方がいいよ。


でもやっぱりハンバーガー

 でもね、やっぱりハンバーガーも食べちゃう。
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 いやぁ、このハンバーガーがうめぇんだわ。
 このハンバーガーのスゴいところは、何も特別なところが無いのよ(もちろん素材は良い)。それぞれがそれぞれの仕事をきっちりしてるだけなのね。その結果がとてもうまい。シンプルな味なのに、いやだからこそうまい。
 以前来たときと全く同じ物食べているが、仕方がない。だっておいしいんだもの。


今度は最上川を東へ!

 さて、おなかいっぱいになったので、出発。
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 今度は最上川に沿って東へ行くよ。
 なかなか吹雪いてるぜ!

 あれから10年も。
 この先10年も。

10年という区切り

 あの日から10年が経つ。
 10年経って、震災復興は一区切りついたと言ってもいいだろう。
 三陸沿岸を結ぶ三陸自動車道は、仙台~宮古間が今年度(2020年度)に全て開通した。かなり大きな橋を作る必要があった気仙沼市内区間も2021年3月6日に開通した。震災時ほんのわずかな区間しか開通していなかったが、震災によって整備が大きく前進することになった。釜石市内では津波被害者を避難施設に輸送するにあたり、この三陸自動車道が役に立った。高台を通る道路は津波からの避難場所にもなった。まさに、命を守る道路だ。
 海辺には大きな大きな防潮堤が出来上がった。人々が住むところからは海が見えないほど、高い高い堤防が出来上がった。住民達の住居も造成を行い、かさ上げをしたり山を切り開いたりして、高い位置に移転した。震災によって受けた大きな傷跡は新しい街の形に生まれ変わった。
 もちろん、個人個人では復興は終わっていないという人もいるだろう。復興が思い描いた形にはならなかったという人もいるだろう。様々な事情があるので、そう思う人がいてもおかしくない。
 それでも、どこかで区切りをつけなくてはいけない。
 それが今だと私は思う。

(当然、福島第一原発周辺についてはまた震災とは異なることを補足しておく)


最大級の震災遺構

 東日本大震災の災害遺構で、おそらく最もインパクトのある場所を10年目のこの日に紹介する。
 「震災遺構を1カ所だけ見るならどこがいいか?」と聞かれたときに、私はこの場所を迷わず選ぶ。
 「最も津波の威力を実感できる場所はどこか?」と聞かれたときに、私はこの場所を迷わず選ぶ。
 「最も心が揺さぶられる震災遺構はどこか?」と聞かれたときに、私はこの場所を迷わず選ぶ。
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 私が選んだ場所は「気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館(旧気仙沼向洋高校)」である。


2018年5月気仙沼向洋高校跡地

 2018年5月に私はこの気仙沼向洋高校を訪れている。
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 まだ震災遺構保存に向けた工事は始まっていなかった。
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 変わらず建っているように見えるが、よく見ると校舎に窓がない。
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 校舎の裏側に回ってみる。やはり下の階の窓は無くなってるし、壁も破壊されている。
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 なにやら大きい物が倒れている。これは元々あったものか、それとも流れてきたのか。
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 校舎内にはめちゃくちゃになった車が放置されていた。
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 また、何台もの車が押しつぶされているのもそのままになっていた。
 この時点で震災から7年経過している。おそらく意図的に残しているのだろう。
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 まだ中が見学できない状態とはいえ、なかなかインパクトに残る震災遺構であった。


2019年3月の気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館

 2019年3月に気仙沼市の震災遺構施設として気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館がオープンした。
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 というわけで早速初日に行ってみた。
 大きく見える二つの校舎の前には新しい建物が建っていた。
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 駐車場には津波の被害に遭った国土交通省の作業車が展示されている。
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 めちゃくちゃとしか形容できない。
 後部の被害はそれほどでも内容に見えるが運転席側の被害が大きい。
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 もう1台は運転席部分がそもそもなくなっていた。
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 3階までの窓は全て無くなっている。
 このあたりまで津波が来たということ。
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 それでは内部に入っていこう。


南校舎1階

 入場料を払って入場すると、まずはシアターに入り映像を見る。
 この映像は津波の映像が使われており、そもそも見ないという選択肢もある。ただ、なるべく見ておいた方がいいだろう。その後、写真展示があり、いよいよ建物内部の見学になる。なお、この伝承館内の写真撮影は禁止なので注意してもらいたい。
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 まずは南校舎の見学。
 1階部分は天井が剥がれて全てが破壊し尽くされている。
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 階段部分にも瓦礫が残っている。
 これが震災直後と同様なのかはわからないが、おそらくそうなのだろう。
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 給湯器があったり、車椅子があったりするところを見るとここは保健室だろうか。
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 砂の残り方が生々しいなって思う。


南校舎3階・4階

 階段またはエレベーターで3階に上がる。
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 この階のメインは流された車である。
 津波によって車が3階まで来たのだ。
 3階なので地上から8mある。しかもこの車は南三陸町の人に代車として貸し出されていたものということで、当時どこで被害に遭ったのかわからないが、もしかしたら何kmも離れたところから流された可能性がある。
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 4階に上がると錆びたレターケースがある。
 この錆こそが津波の痕跡であり、4階床上まで津波が来たことを示す。
 この高さはおおよそ12m。12mもの津波がこの高校を襲ったのだ。
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 昔ながらのパソコンも水に浸かった。
 このスポンジ状のものは後述する冷凍倉庫の壁材である。
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 4階は比較的被害が少なかったがそれでも泥がたくさんついていた。


南校舎屋上

 屋上に上がる。
 4階建てなので、もう屋上しかない。
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 北校舎が見える。
 北校舎は窓枠が3階以上は残っているので、津波の流れは南側から校舎を襲い、南校舎によって威力が減じたというところだろうか。
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 屋上から見ると旭崎と呼ばれる高台が見える。
 ここは膝上まで津波が来たそうで、ここに避難した8名は松の木につかまり波に耐えたとのこと。人間膝まで浸かると立っていられないのでよく耐えた。その後偶然流れ着いたアルミのはしごでケヤキの木に移り、その後流れ着いた2名を含め合計10名が助かった。このケヤキの木は明治三陸大津波の後、「樹木は命を救う」ということで植樹されたもので、東日本大震災でも10名の命を救った。
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 この高校では当時校舎にいた生徒達は他の高台への避難誘導が成功し、被害は出なかった。重要書類の待避なので残っていた教師や校舎の工事関係者の合わせて約50名が最終的にこの南校舎の屋上に避難することになる。結果的に4階の床上25cm程度で津波は収まったが、当時この場所に避難した人々は気が気でなかったであろうと思われる。少しでも高いところへってことで机を積んだりしたようだ。おそらく、階段室の屋根への避難を考えていたのだろう。
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 こちらは南校舎屋上から見る体育館跡地。
 実際にはこれには大きなかまぼこ形の屋根があった。
 津波によってその屋根部分が流れてしまい、コンクリート部分だけが残ったものである。
 こう見るとやはり、コンクリートは強いと思う。もっともコンクリートの建物でも他の場所ではなぎ倒されたりもしているのだが。


外部見学

 それでは南校舎から外に出る。
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 さきほどの体育館は近くで見るとより無残な状態であることがわかる。
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 振り返ると南校舎4階部分が大きくえぐれているのがわかる。
 これは冷凍倉庫が激突した跡だ。
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 内部から見るとこんな感じだ。
 冷凍倉庫が激突とはまったく意味がわからないが、とにかく鉄筋の冷凍倉庫がぶつかったのだ。どれだけの大きさの倉庫がぶつかったのだろうか。前項でも簡単に述べたが、室内にはスポンジ状のものが残されており、冷凍倉庫の壁材は室内に流れていった。これが正面から衝突しなかったことで、この校舎が持ちこたえられたのではとも言われている。
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 北校舎とさらに北側にある総合実習棟の間にはたくさんの瓦礫や車が積み重なったまま残っている。
 破壊の大きな大きな威力に驚く。
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 その後北校舎内を通って、元の伝承館に戻る。
 被災後の生活に関しての展示やミニシアターで教訓などの映像を見て一通りの見学が終わった。所要時間はゆっくり見て90分ぐらいだろうか。映像上映のタイミングが良くて早足で回れば60分程度かかるだろう。



最も心を揺さぶられる震災遺構

 東日本大震災の震災遺構の多くを見てきたけれど、気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館が一番心を揺さぶられる。もしかしたら、思考停止してしまう人がいるかもしれない。でも、そこで終わってはいけない。
 復興が進み、防潮堤が整備され、住居は高台に移転し、安全になったように思える。
 それ自体の整備は命を守る、財産を守るという意味で無駄ではないが、それでも大きな地震が来たときに避難することを忘れてはいけない。震災では色々な理由で亡くなられた方がいるけれど、一番多いのは避難しなかったことによって亡くなったと思われる。避難していれば助かった命はたくさんある。死者数は何分の一にも減ったかもしれない。
 大地震はいつか必ず起こる。大津波はかなりの確率で来る。そのとき、適切な行動ができれば生き延びることができるのだ。この施設を見学すると、そのことをイヤというぐらい実感させられた。

 ちょっくら関西行ってくるわ!
 エクストリームなルートで!


大宮からだと新幹線が安くなる

 というわけで今回の関西旅行は「週末パス」を買って出発。
 関東甲信越南東北が範囲の週末パスをなんで使うのかって?
 それは今回のシリーズ読んでいけばわかるよ。
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 大宮からは新幹線。
 上野東京ラインの開通で大宮から新幹線を使うことが多くなった。大宮じゃなくても上野から新幹線を使う。ほとんど時間が変わらないのに東京発着より特急券が210円安い。そして、大宮だと距離の関係でさらに安くなる区間があるので、そこを使うときは大宮一択!

 ・大宮発着だと特急券が安い区間
  北海道新幹線:全駅
  秋田新幹線:全駅
  東北新幹線:小山・宇都宮・白石蔵王・くりこま高原・盛岡・新青森
  上越新幹線:熊谷・高崎・浦佐
  北陸新幹線:安中榛名・長野・糸魚川・新高岡

 特に郡山・浦佐・長野は1,000円以上安くなる。東海道・横須賀沿線だとグリーン料金が捻出できちゃったりするので、覚えておいて損はないはず。



こまち型車両でGO!

 つーわけで、やってきたやまびこはこまち車両付。
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 こまち車両はほぼ増結車みたいな運用があるよね。
 では出発~。
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 普通車だと4列席だからなんかお得な気分になるこまち車両(本当に席の横幅が広いかは知らない)。
 目指すは郡山!関西行くのになぜ郡山かは秘密だ!


郡山には旧こまち車両がいた

 さて、あっというまに郡山到着。
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 今はひたすら増結車運用に就いている、一世代前のこまち車両。
 こいつもコロナ減便で運用離脱したんだっけ?
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 こうやってみると鼻の角度が全然違う。
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 やっぱりはやぶさ君の鼻は長いなぁ。


快速あいづを見る

 そういえば、車両が変わった快速あいづを見に行こう。
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 確か、半室指定席ができたんだよね。
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 これでもかってぐらいアピールする指定席。
 釜石線の快速はまゆりもそうだけど、特急とか運転する時代でもないけど、指定席需要はあるのでこれでその需要にこたえるっていうのは一つの答えかなって思う。
 そういう意味では常磐線のいわき~仙台間とか、奥羽本線弘前~青森間とかこういった方式で快速指定席を運転できないかなって思うよね。


さーて、次回は?

 外に出る。
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 これを見るたびに福島県に来たんだと思う。
 もうさー、完全に安全なんだから関係ない場所はなくしていいんじゃないの?って思う。
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 さて、郡山駅でこれからどーする?
 ヒントはこれ!
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 災害遺構が災害を受けてさらなる災害遺構になる。
 そんなこともある。


令和元年東日本台風

 昨年のことなので、記憶に新しい人も多いだろう。いや、コロナのせいで、もう遠い昔の記憶になってしまっているかもしれない。
 2019年、東日本を襲った台風19号。進路としては関東縦断しただけの形になるが、勢力の強さによりその被害は大きいもので、北陸新幹線の車両が水没したとか記憶に残っているだろう。
 そして、この時ラグビーワールドカップが開催されていた。
 台風が来る次の日は釜石での試合が予定されていた。私自身もこの時は釜石入りして観戦する予定だったが、残念ながら試合は中止になってしまった。台風が近づく夜、釜石は一晩中サイレンが鳴っていた。避難所も開設されていたが、川の近くであるものの鉄筋コンクリートの建物で津波にも耐えた建物だったのでこの場にいた方が安全と思い、ホテルにとどまった。一夜明けた釜石では冠水するなど大きな被害が生じ、街の様相が大きく変わっていたのを覚えている。


河川増水により被害を受けた「メモリアルパーク中の浜」

 今回は以前も取り上げた「メモリアルパーク中の浜」を再び取り上げる。
 前回の記事はこちら。

 元々は静かなキャンプ場だったこの場所は、震災による津波で景色を一変させた。
 その後、震災遺構として整備され、津波の被害を受けた場所をきれいに保存している。
 そして、この場所は、また、被害に遭うことになる。
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 訪問時点で10ヶ月経過しているがそのままだ。
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 通路がえぐれているのがわかると思う。
 小川でしかなかった川が、暴れた。
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 わかりづらい写真で恐縮だが、奥に橋が架かっていて、その橋に木など大量に流れてきたものが絡まっているのが見える。どちらかと言えば修復するお金がないので、そのままになっているというのが正しいかもしれない。
 様々な災害の中で、比較的容易に予測が可能なのは台風だ。
 台風に関して言えば、あらかじめ避難しておくことも可能である。
 普段はおとなしい小川もこのように暴れる。特にこの時の台風は気象庁が尋常じゃないほど警告していた。特に地理的要因(低地など)や構造的要因(木造や低層階)の人々はきちんと避難する必要があるだろう。


震災の遺構

 さて、入口部分のインパクトがでかすぎたが、他の所も見ていこう。
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 震災の津波で大きな被害を受けたトイレ。
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 こちらは変わらず。
 台風の被害はあまりなかったようだ。
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 鉄筋コンクリートでも、津波でもげた炊事場。
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 前回来たときは、夕方で雨も降っていたので静かな恐ろしさを感じる施設であったが、今回は夏の晴れた日だったので、そこまで恐ろしさを感じることはなかった。
 でもね。津波は来るんだよ。この写真の位置でもかなりの高さだけど、東日本大震災の時にはこれでも足りない。なぜなら、目線が津波の浸水した高さになるように調整されているから。だから、この場所にいるとき、もし大地震が発生したら、ここではない近くの山に真っ先に逃げるべきだ。
 そんな教訓を教えてくれる施設である。

 帰還困難区域が設定されて、自由に立ち入れない場所がある。その場所は具体的にどこなのかまとめた。
 便宜上、災害遺構というカテゴリーに入れているが、決してこの場所は災害遺構ではない。
 当ブログに適切なカテゴリーがなく、この記事のためだけにカテゴリーを新設すると読者にとってもわかりにくいと思われるため、ご容赦願いたい。


福島第一原発事故に伴う帰還困難区域地図を作ったよ

 福島第一原子力発電所の事故により、現在も多くの地域で立入が規制されている。ただ、その一方で着実に少しずつであるが規制の緩和が行われており、立ち入れる区域も増えてきた。ただ、実際にどこに立ち入れるのか、どこに立ち入ってはいけないのか、一元的に管理した地図がなく、あったとしてもかなり簡略化した地図であるためわかりづらい。
 というわけでみんなが一番使用しているであろうGoogleマップのマイマップ機能を用いて、帰還困難区域、立入規制緩和区域、特別通過交通制度適用道路の地図を作成した。原子力発電所周辺の今を見たい人々の参考にして欲しい。


福島県帰還困難区域地図

 出来上がった地図はこれ。リンクはこちらから。
無題




 各区域の解説は次の通り。


帰還困難区域(要立入許可)

  オレンジ で示された区域は「帰還困難区域」である。
 定義は「放射線量が非常に高いレベルにあることから、バリケードなど物理的な防護措置を実施し、避難を求めている区域」となっている。
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 この写真で言えば左は解除された区域、右は帰還困難区域。入ろうと思えば入れるけど入っちゃダメだよ。
 もっとも自分の家に帰る場合や、墓参り、工事などについては地元の役所で許可を得ることで立ち入ることができる。許可があればいくつかのゲートがあり、そこから立ち入ることになる。なお、宿泊は不可能。
 以前は「避難指示準備解除区域」「居住制限区域」「帰還困難区域」に分かれていたが、「避難指示準備解除区域」と「居住制限区域」については全て避難指示が解除されており、現在残るのは「帰還困難区域」のみとなる。
 詳細は福島県の復興ポータルサイトが詳しい。



福島第一原子力発電所敷地(要立入許可)

  ピンク で示された区域は「福島第一原子力発電所敷地」である。
 いわゆる、事故現場。
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 帰還困難区域内に存在するのだと思われる。この辺、重複しているのかそうじゃないのか不明。
 大量の地下水に悩んでおり、敷地内は水を溜めたタンクがいっぱい。
 現在、この水を薄めて海洋放出するかしないかで議論沸騰中。まぁ、放出量としては他の国が海に流している放射線量よりも低いので基本的には問題は無いはず。ちなみに文句を言っている韓国は、自分の国で日本が流そうとしている量よりも大量に流してるんだけどね。
 一度はちゃんと東京電力のホームページを読んでみた方がいいと思うよ。どんな意見だったとしても。



中間貯蔵施設区域(要立入許可)

  グレー で示された区域は「中間貯蔵施設区域」である。
 帰還困難区域の中にあって、重複して指定されていると思われるが、詳細不明。
 除染などででた、放射性物質を含む土壌や廃棄物を最終処分するまでの間、安全に集中的に保管する施設。最終処分する場所が決まってなくても、ものは出てきてしまうのでとりあえず保管する施設。保管期間はいつまでかって?最終処分場が決まるまでだよ。
 この区域の国道6号線沿いには中間貯蔵工事情報センターがあり、ここは申請なしで見学することができる。しかし、現在コロナの影響で閉館中。



帰還困難区域解除済区域(立入許可不要)

  水色 で示された区域は「帰還困難区域解除済区域」である。
 この区域名は正式なものではないが、常磐線の開通に伴い帰還困難区域が解除となった区域(=特に規制がない区域)で、面的ではなく線的な解除になっている。具体的には周辺が帰還困難区域内にある夜ノ森駅、大野駅、双葉駅と帰還困難区域外を結ぶ道路と県立大野病院敷地のみが解除された。
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 よって駅へ通じる道路は通れるものの、周りは全て帰還困難区域なので封鎖されている。
 ただし、双葉駅については周辺が立入規制緩和区域となっているため、夜ノ森駅の新設された西側の出入り口は帰還困難区域になっていないため、このような状況にはなっていない。
 このほか常磐線鉄道用地と駅前広場についても同様に帰還困難区域が解除されているが、別項目としたので当該項目を参照して欲しい。


常磐線(帰還困難区域解除済・立入許可不要)

  エメラルドグリーン で示された区域は「帰還困難区域が解除された常磐線用地」である。
 常磐線と言えばやっぱりこの色だよね?(それは常磐線快速電車の色です)
 常磐線の運転再開に備え、この区間の鉄道用地(線路敷・駅舎・法地など)や駅前広場についても帰還困難区域の指定が解除された。よって特に規制がない区域となる。
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 大野~双葉間は震災前複線であったが、震災後の運転再開では単線とされた。旧上り線敷地はアスファルトで舗装されて避難通路として活用できるようになっている。推測の域を出ない話ではあるが、どちらかと言えば周辺は帰還困難区域であるため、立入には許可が必要であり時間が限られるので、保守などの作業がしやすいように道路を線路内に整備したっていう理由の方が大きい気がしなくもない。道路を整備しておけば保守などのためのトラックなども簡単に許可なく入れることができるので。もちろん、立ち往生したときに乗客をバスで運ぶのに活用できるということも否定しないが。


特別通過交通制度(立入許可不要)

  青色 または 紫色 で示された区域は「特別通過交通制度が適用されている道路」である。
  青色 は「四輪・二輪・原付」が走行可能で、 紫色 は二輪・原付の走行が不可能である。規制内容が異なるので注意されたし。なお、どちらの道路においても自転車や徒歩による通過は不可能である。
 基本的には通り抜けできなくて不便なところを通り抜けできるようにしたということだが、適用される道路が当初に比べてかなり増えた。常磐線とは違い、常磐自動車道はこの特別通過交通制度による道路である。
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 建物が建ち並ぶ場所ではこのようなバリケードが張られている。
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 山間部に行くとこんなにバリケードだらけではないが、「帰還困難区域内につき、長時間の停車はご遠慮ください」という看板が目に付くのでちょっとビビる。
 結構長距離に渡って通過する場合もある道路だが、この区域内では原則として人が立ち寄る場所はないので、当然トイレもない。車の外に出るのははばかられるので、ちょっと降りて用を足すわけにもいかない。なので、この区域を走る場合はあらかじめトイレを済ませておこう。
  ピンク色 の道路は「特別通過交通制度による道路」であるが、現在災害による路肩崩壊によって通行止めになっている道路である。通行の際には注意して欲しい。


立入規制緩和区域(立入許可不要)

  黄色 で示された区域は「立入規制緩和区域」である。
 帰還困難区域内において、各町村が作成した特定復興再生拠点区域復興再生計画が国に認定されると、国による除染や廃棄物処理や、国による道路整備代行が行われる。これにより概ね5年以内に避難指示を解除して居住を可能とするものである。この計画・整備の一環として立入規制緩和区域が設定されて、制限付きではあるが許可不要で立ち入ることができるようになる。
 2020年3月に初めて設定された。立入規制が緩和されたものの、避難指示が解除されたわけではないため、宿泊はできない。
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 見た目は普通の住宅街。でも、人気はない。
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 公園とか遊具が植物に侵食されていってる。
 これは今後整備されるのかな。




というわけで

 これらの立入許可不要な区域は、私有地まで立ち入っていいものではない。
 当然、所有者が必ずいるので、所有者の許可なく私有地に立ち入ることがないようにして欲しい。

 作成に当たって経済産業省、環境省、復興庁、福島県、各市町村のホームページを参考にした。元の資料の解像度の低さなどによって、数m~数十m程度の誤差があるかもしれないが、精度についてはご容赦願いたい。特に南相馬市の帰還困難区域については詳細な資料が見つけられず、特に精度が低く、大きくずれている可能性があると思われる。また、人家がないような山林内における区域境についても同様である。
 明確な誤りがあった場合、コメント欄やTwitter、右上にあるメールアドレスまで、証拠資料とともにご一報いただければ幸いである。

 あれから9年目の3月11日を迎える。
 津波に流されても助かった人がいた一方で、津波に流されて亡くなった人もたくさんいる。
 津波から逃れた奇跡がある一方で、津波にのまれた悲劇もたくさんある。
 今回は一番有名で、一番悲しい話。


消えた集落

 岩手県北部の岩手町から盛岡、花巻、北上、一関と通っていく、東北地方最大の河川である北上川は宮城県石巻市に河口がある。その河口の近くには釜谷という集落がある……いや、あった。

 ↓震災前2008年10月
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 ↓震災直後2011年3月19日
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 ↓震災後2015年5月
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 出典:国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)
 ※なお、掲載にあたり写真の回転、トリミング、縮尺変更、赤線追加を行った。

 この北上川の河口に位置する釜谷集落には108世帯の人々の住居があった。一番上の震災前の写真を見ると、それなりに家が建っているのがわかる。そして、真ん中の震災直後の写真では、その集落が跡形もなくなっているのがわかるだろうか。そして、下の写真では震災から4年経過したにもかかわらず、建物はなくなったままである。
 比較するとわかるが、震災によって新北上大橋の橋桁が一部流されて、下の写真では仮設の橋になっている。この橋は2016年6月10日に開通している。その他にも堤防の復旧や、集落内の道路の復旧が行われた。
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 その一方で、集落の復旧工事が行われているような気配はない。なぜなら、この集落全域が災害危険区域に指定されたからである。
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 出典:石巻市 災害危険区域の指定区域図(北上地域)
 ※なお、掲載にあたり図面のトリミングを行った。

 災害危険区域に指定されると、石巻市の場合、住宅や宿泊施設、病院、保育園などを建てることができなくなる(※市町村によって異なる)。つまり、上記の指定区域図によれば、平地の部分のほぼ全てにおいて住宅の建築ができないので、集落としては成立できず、復旧・復興はなされないということである。

 そんな元集落に唯一の建物がある。

 石巻市立大川小学校。

 多くの人々の記憶に刻まれた、小学校の名前。


津波の爪痕

 前項の空中写真に赤枠で囲ったところが、石巻市立大川小学校の敷地である。
 昔も今もそこに小学校の建物はある。すでに、小学校ではなくなったが。
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 この小学校の跡地は不思議な静寂に包まれていた。前項で書いたとおり、周りに人家はなく、津波の被害に遭った小学校だけが残っている状態だが、それだけでは説明できない静かさである。まるで、ここだけ周囲から切り取られたような、そんな静かさ。
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 立派な校門が切り取られ、ここに置かれている。
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 敷地に入ると、慰霊碑が目に入る。ここは津波避難の遅れにより、全校児童108名中74名(当時校内にいたのは78名)、教職員13名中10名(校内にいたのは11名)、その他地域住民や保護者、スクールバス運転手など多くの人々が命を落とした。
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 慰霊碑から見える教室の中を見るとたくさんの仏像や千羽鶴があった。
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 体育館であっただろうと思われる施設。
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 校舎と結ぶ橋は津波の威力によってひねるように破壊されていた。
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 柱やコンクリートの壁は残存しているが、大多数の壁はおそらく材質の違いなどによって破壊されている。黒板などは残存しているのに、壁がなくなっているのが不思議である。力のかかり具合などがちょっと違うだけでも、結果は大きく違うのかもしれない。
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 校舎は2階建て。屋上には上がれない構造になっていた。北上川河口付近とはいえ、河口から5km程離れており、ハザードマップでも河口から3km程までしか津波が来ないとされていたため、そのような配慮はされていなかった。
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 2階部分の室内を望遠で撮ってみる。こう見ると天井近くまで津波が来ていたことがわかる。つまり、屋上に出られない構造上、どうしたとしても助からなかったということになる。しかし、児童と教職員は当時校内に長いこととどまっていた。


ここでなにがあったのか

 全校児童108名中74名(当時校内にいたのは78名)、教職員13名中10名(校内にいたのは11名)、その他地域住民や保護者、スクールバス運転手など多くの人々がこの場所で命を落とした。学校における事件事故で児童が犠牲になった人数としては戦後最悪のものである。
 地震直後、児童は教員の指示に従い、校庭で整列していた。市の広報車が避難を呼びかけていたという。校長が不在で指揮系統が定まらぬまま、避難するかしないか、どこへ避難するか議論が行われたという。裏山に逃げるのか、別の場所に逃げるのか。結果的に、堤防より高台になっているところへ逃げようとしているときに、津波が人々を襲った。
 地震発生から約50分後のことであった。
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 逃げようとしていたのはこの正面の木の左側のあたりである。
 横には新北上大橋が見える。北上川の堤防の高さに橋は架かっていることからわかるとおり、堤防よりもそれほど高い場所ではない。もし、ここまで逃げられたとしても、津波を避けることはできなかった。ここに津波が来ないと言うことであれば、そもそも北上川の堤防は越えてないわけで、避難する意味が一切なかったと言える。
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 出典:大川小学校事故検証委員会 大川小学校事故検証報告書
 原出典:防災ガイド・ハザードマップ 石巻市 平成21年3月

 震災前に作られていた津波のハザードマップによれば、この区域は津波浸水想定区域にはなっていなかった。他にも河口からは約5km離れており、北上川の堤防は6m、津波の到達予測も当初6m、また地元住民からのここには津波が来たことないから大丈夫だという発言が、そもそもここは避難しなくてはいけない場所なのかという考えに至る可能性があっただろう。


どうすればよかったのか

 どうすれば良かったのか。それは簡単と言えば簡単である。とにかく逃げること。ただ、逃げればいいということではない。どこに逃げるかが重要。
 大川小学校の人々は三角地帯と呼ばれる堤防際の高台へ逃げることを最終的に選択した。しかし、その判断は遅く、避難している途中で津波に襲われることになる。また、前項でも書いたとおり、避難できたとしてもそこも津波に襲われており、同様の結果となったと思われる。
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 学校の近くには、もっと高い場所があった。
 いわゆる、裏山である。
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 一つは、体育館裏手の斜面で、過去(平成21年頃まで)にはこの場所でしいたけ栽培の授業が行われていたとのことである。写真で見ると道状のものがあるが、これは昔からあったという人もいれば、震災後斜面に入る人が増えたためという人もいるため、以前からあったものと断定することができない。とはいえ、比較的なだらかな斜面であり、とにかく高い場所へ避難すると言うことであれば一つの選択肢であったことは間違い無い。
 しかしながら、木が生えているため中の状況がどのようになっているか不透明である。見えないところでの斜面の崩落など発生している可能性もあった。
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 もう一つは急傾斜ではあるが、崖崩れ防止工事が行われた斜面である。
 平成15年に崖崩れがあったときに工事が行われた。ここでは当時不在だった校長が斜面に登った経験があったり、震災前年には3年生児童が先生に引率されて一番下の部分に登った経験があるようだ。ここであれば目視した範囲で崩れていないか確認できるので、先ほどの場所よりも避難する決意がしやすいものと思われる。しかし、斜面はかなり急である。
 さらにこの右手の斜面も「大川小学校事故検証報告書」によれば学校の周辺状況の裏山の項にに記載されている。自身で撮影した写真がないため、詳細は記載しないが、最初の斜面とほぼ同様の条件のように思える。
 このように、避難できる場所は近くにあった。校庭で長いこととどまっていて避難するよりも、すぐさま裏山の斜面に逃げることが先であった。どうすべきであったかと言われればそれが正解だったということになるだろう。「Second Best, Tomorrow(最善でなくても今できることをやれ)」という言葉がある。最善の選択肢を選ぶのに時間をかけるよりもまず行動すべき、この時必要だったのはこれだった。


なぜそうしなかったのか

 そのように避難候補地があったにも関わらず、そこになぜ逃げなかったのか。
 林の中でその中の状況がよくわからず崩落などが発生している可能性がある斜面と、開けているが急な斜面の裏山に逃げるのかどうか判断にせまられることになる。「なぜあそこに逃げなかったのか」というのは簡単だが、現地を自身の目で見てその判断を自分ができるかというと難しいと感じた。地域住民も少なからず避難していたとのことなので、お年寄りから小学校低学年までの行動力に難がある人々の運命を抱えた中で、学校の教員がそこに避難するのを諦めたのは理解できなくもない。ましてや当日の天候は雪であり、滑る可能性があるなどなおさら判断が慎重になった可能性がある。
 誰が悪かったのか。
 過去全く経験も記録もないような大津波なのだ。それに対しきちんと対応できなかったことを行政や教員に求めるのは酷であると思う。しかしながら、裁判では学校と市教委に過失があったと認定された。その中で、「市の広報車が避難呼びかけた中で津波が来ることを予見できた(仙台地裁)」「校長らは、地域住民よりもはるかに高いレベルの知識に基づいてハザードマップの信頼性を検討すべきだった(仙台高裁)」と判決に記された。もちろん、避難計画の不備などはあったと思う。その一方で「(市が正しいと示した)ハザードマップの信頼性を検討」とは教員達に対し、非常な酷な要求ではないだろうか。
 誰も悪くない、次に同じことが起きた時に同じことにならないように、しっかり準備するべきであると個人的に思うが、そうもいかないようだ。一体、どこまでのことを想定すれば良いのだろうか。きりがないように思える。
 亡くなった人々に、合掌。

災害と言うべきなのか、事故と言うべきなのか。


復興の象徴となる常磐線開通はもうすぐ

 富岡町のことについては以前書いた。

 現在も、状況はあまり変わらない。人口は増えず、街に戻る人もそれほど変わらず。ただ、今年の3月にまた一つの大きな出来事がある。常磐線の運転再開だ。これにより、震災によって傷ついた鉄路がすべて、何らかの形で復旧することになる。

 東日本大震災の被災地の中で、福島県沿岸部というのはちょっと毛色が違う。
 それはもちろん、長いこと元の場所で暮らすことが許されない地域であるからだ。それは今も続いていることであり、常磐線が運転再開しても規模が縮小されるとはいえ、そのような地域が今後も少なからず残ることになる。
 意味がないと言う人がいるかもしれない。
 それでも、鉄道が再び走るということは復興への一歩であり、それは復興の一つの大きな大きな象徴である。
 その一方で、これからも東日本大震災でおきた事故からの復興を目指す現場がある。今回紹介するのはそれを伝える施設である。


福島第一原子力発電所を学ぶ場

 福島第一原子力発電所の事故により、使えなくなった原子力発電所の廃炉作業が今も続いている。セキュリティの関係上、また放射線量の関係上、今はまだ気軽に福島第一原子力発電所を見学することはできない。ただ一体どのようなことがあの場所であの時おきて、今、何が行われているのか、あの原子力発電所で発電された電力を使っていた我々は知る必要があるだろう。
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 富岡町の新しいショッピングモール、さくらモールの道路挟んだ向かい側に、やけに西洋的な外観をした建物がある。この建物は元々東京電力エネルギー館という原子力発電所などのPR施設だった。震災後は閉鎖されており、福島第一原子力発電所へ向かう通勤バスの乗り場になっていた。
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 現在もその役割を果たしているが、それだけでなく2018年11月に福島第一原子力発電所事故において、何があったのか詳しい情報提供や廃炉事業の現状を知ることができる施設として、この建物を再利用して東京電力廃炉資料館がオープンした。       
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 入ってすぐに東京電力社長のおことばに出迎えられる。事故を起こしたことを反省している、その教訓を残す、そして現在を伝えるというのがその主旨だ。
 事故というものは事前に安全性を高めても、どうしても起こってしまう。我々はそこから何が原因だったか、どうすれば防げるのかを学ばなければならない。この場合に個人の責任を追及することに意味はない。最も重視するべきことは、もう二度と同じような事故を起こしてはならないということである。


原子力発電所のあの時、あれから、今、今後。

 まず当日の地震発生直後から原子力発電所事故に至るまでをまとめた映像を見る。
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 そして、さらに細かく一体何が現場でおきていたのか、どのように対応したのか、細かく紹介するコーナーがある。時間毎にどのような状況であったか、どのような対応をしたのか、全ての原子炉の状況がわかるようになっていた。
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 途中には各原子炉を囲う建屋の模型もある。
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 それぞれ全く形が違うのが興味深い。
 事故からえられた教訓や反省も展示していた。
 後半はこれから福島第一原子力発電所はどのように廃炉にしていくのか、今どのような状況なのか紹介するコーナーになっている。
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 福島第一原子力発電所で働く人の数、4,160人。
 平均的な数字ということだが、これから廃炉に向けて段階が進む毎に増えたり減ったりするのだろう。まさに、福島第一原子力発電所の今を示す。その他にもロードマップを示し、今どの段階にあるのか原子炉毎に表示してある。もちろん、これらは段階が進む毎に変わる。今を示すという意味で常に新しい情報を知らせることができるよう工夫されていた。
 あくまで、ここは東京電力の施設である。展示内容が一方的であるとか住民への被害の状況などに関する展示がないことなど、批判する人もいる。ただ、福島第一原子力発電所でおきたことや現在、そして今後のことを説明することが第一であり、限られた展示スペースの中でかなり充実していると思う。映像系の展示が多いこともあって、じっくり見ると2時間程度かかるだろう。それだけ見応えがある。


双葉警察署の被災パトカー

 東京電力廃炉資料館の近くの公園には、津波によって被災したパトカーが展示されていた。
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 クラウンのパトカーだけど、原型を留めていない。
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 このパトカーに乗車して、津波の避難誘導を行っていた警察官2名は沖に流され殉職した。1名は30km離れた沖合で発見され、もう1名は現在も見つかっていない。
 見学した当時は公園に置かれていたが、現在は町が整備する震災と原子力事故のアーカイブ施設で展示するために修復を行っているという。アーカイブ施設は2021年夏頃オープンする予定だ。

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