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飛行機と食事とホテルとたまに観光地を淡々とアップするブログにおこしいただきありがとうございます。
当ブログの写真・文章の転載はご遠慮ください(法的に認められた引用を除く)。

タグ:震災遺構

 地震の後、テレビで見た津波到達予想時刻は10分後だった。


荒野の中に佇む校舎

 東京日本橋から仙台まで、太平洋沿岸を走る国道6号。
 相馬から先仙台空港近くまでは、この国道6号よりさらに海沿いに福島宮城県道38号が走る。この県道38号は国道6号よりも信号が少ないため、抜け道として使いやすい。
 もちろん、国道6号よりも海沿いということは、津波の被害を大きく受けた地域でもある。
 農地の復旧工事が行われていて、荒涼とした風景が続く中を県道38号は走る。常磐線と平行していたはずだが、内陸に移設された為、その姿はない。その中で突然大きな建物が見えてくる。
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 山元町立中浜小学校である。正確にはその旧校舎だ。
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 遠くから見ると、きちんと建っているように見えるが、近くで見ると窓ガラスの多くがなくなっている。
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 当然、この校舎は津波によって大きな被害を受けた。


津波到達予想時刻まで10分

 大きな地震の後、大津波警報が発令された。
 テレビをつけると到達予想時刻まで10分だった。
 事前に訓練していた避難場所(坂元中学校)まではどんなに急いでも20分はかかる。
 とても間に合わない。

 地域住民の方も避難してくる。
 全員で屋上に避難することにした。屋上には倉庫がある。
 児童・職員・地域住民合わせて約90名が避難し、一晩を過ごす。

 元々の防災意識の高さ、前々日の前震によって、このような瞬時の判断ができた。

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津波は2階の天井まで来た

 実際には地震発生から1時間後に津波が到達した。
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 津波は2階建ての建物の2階まで到達した。
 当然2階の窓ガラスもなくなっている。
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 入れないように金網が設置されているところから中を覗く。
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 全てのものを洗い流すかのように、津波が襲った。
 もちろん、瓦礫が多数流れ着いたのだが、それはきれいに清掃されている。
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 窓ガラスを割っただけでなく、サッシももろとも流していった。
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 重要なものが入っていたであろう金庫も破壊されている。


裏に回ると倒れた時計塔

 校舎の裏に回る。
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 倒れた時計塔が目に入る。
 よくこの校舎が耐えられたなというのが感想。
 手前には破壊された「中浜小学校」の校標が。
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 唯一規制されていなかった階段から2階部分を見る。
 音楽教室のあたりは比較的浸水深が低かったとされる場所。
 それでも、おそらく白い壁のシミぐらいまでは浸水したんじゃなかろうか。
 もし、2階に避難するという判断をしていたら、完全にアウトだった。
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 昇降口から中を見る。
 やはり大きな力によって様々なものがひしゃげている。
 その一方で壁に張り付いていた下駄箱は無事だった。
 壁がある場合、力のかかり具合が違うのだろうか。
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 ここは職員室だろうか。
 黒板に書かれた児童数、担任名が妙に生々しく見える。
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 そして流されてきたものが柱に絡みついていた。


瞬時の判断が生死を分ける

 こちらの小学校は瞬時の判断で命を落とすことがなかった。
 ・10分しかないので指定避難所に逃げるのは不可能という判断ができたこと。
 ・屋上に屋根裏の物置部屋があるという装備と知識。
 ・いつでも津波は来るという危機感の共有。
 これらによって、全ての命が救われた。

 でも、それができなかった学校もある。それはまた近いうちに書きたいと思う。

 高さ17mもの津波が海辺に建つホテルを襲った。


震災遺構「たろう観光ホテル」

 今回紹介するのは東日本大震災における災害遺構で確実に北の大物というべき物件。
 宮古市北部の田老という街にそれは存在する。震災遺構「たろう観光ホテル」だ。
 たろう観光ホテルは1986年にオープンした観光旅館。地上6階建てで、それほど高い建物がない田老ではシンボルになるような建物だ。
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 震災前の姿を残す写真。
 このたろう観光ホテルは東日本大震災の震災遺構の保存に、初めて国費が投入された物件である。
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 震災による津波で1階から2階部分の壁などは全て抜け落ちて、鉄骨だけの状態になっている。


津波は全てを押し流す

 この6階建ての建物を見上げる。
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 見上げると3階部分の窓がない。
 2階の天井ですら高いのだ。高さ17mにもなる津波がここに来たのだ。2階だけでなく、3階も壁の一部が破壊されて、窓ガラスがなくなっている。
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 東側に回ると3階部分の壁が大きくなくなっている。
 おそらくこちらの方向から波が入ってきたのだろう。
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 ものすごい勢いで流れた津波は全てを押し流した。
 エレベーターの籠もかなりの力で押されたせいかひしゃげてしまっている。
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 1階部分で残っているのは鉄骨と階段、エレベーターの籠と枠だけだ。もちろん全てを押し流した結果、ここには大量の瓦礫が山積みとなった。いまではきれいに撤去されている。
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 震災によって地殻変動が起きて、2.18m動いたことを示す看板。一等登記基準点がここにあったが、2.18m東南方向に移動し、高さは0.31m下がった。震災により大きく地殻変動が起きた。あまり気づいていないけど、震災とその後の地殻変動で東京でも数cmから数十cm単位で動いている。
 残念なことに元の位置と新しい位置の写真を撮り忘れてしまった。

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内部見学ができる

 このたろう観光ホテルの特徴として、内部が見学できる。
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 ただし、予約する必要がある。詳細はホームページで確認して欲しい。

 年に何回か(一度だけ?)、無料見学日があるので、それに参加してみた。
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 内部の見学はこの外にある非常階段を上がる。
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 もちろん修復されているが、被害を受けた階段を上がる。
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 客室の畳は剥がされていたが、テレビや冷蔵庫、金庫などはそのまま置かれていた。
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 こう見ると何も影響が無かったように見える。
 それは高いところだったからであって、下は地獄である。
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 エレベーターも至って普通だ。
 まぁ、内部見学しても被害に遭ってない部分を見ても仕方がないっちゃー仕方がないのだけど、階段を上がっていくときにこの高さまで津波が来たと思うと、恐ろしさをイヤというぐらい実感できる。
 内部では震災当時の津波が来ているところの映像が流されており、その場で津波が来たときと平常時の違いが実感できるようになっている。この映像は撮影禁止なので、ここに来て見るしかない。
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 三陸地方は、地震が来れば津波に何度も襲われてきた。津波に対する防災意識は高い方だったと言える。このような張り紙もなされていた。小さい頃からそういった教育を受けてきたはずなのだけど、あれだけ多くの犠牲者がでてしまった。津波に対する防災意識はいくらあっても足りない。


近くにあるJFたろう製氷貯氷施設

 近くの港には漁協の製氷貯氷施設がある。
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 ここには明治、昭和、平成の各津波の高さが書かれている。
 昭和三陸津波が10m、明治三陸津波が15m、平成の東日本大震災津波が17.3m。
 これだけの高さで津波はやってくる。勢いをつけてやってくる。しかもそれは波が高いのとは確実に違う。海面が上昇して押し寄せるのだ。その津波の前で人間は無力である。とにかく、逃げるしかない。一刻も早く、高いところへ。心配になって戻ってはいけない。きっと逃げているはずだ。そう信じて、逃げるしかない。

 噴火により発生した高温の火砕流は小学校を襲った。


雲仙普賢岳1991

 1990年(平成2年)に198年ぶりに活動を再開した雲仙普賢岳は、多くの被害をもたらした。ある程度の年齢の方であれば、火砕流が報道関係者を襲い43名の死者・行方不明者をだした映像が記憶に残っているかと思う。この噴火活動は1995年(平成7年)まで4年半続き、島原市・深江町(現・南島原市)に大きな被害をもたらした。
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 写真の大火砕流は43名の死者・行方不明者がでた時のもの。この時はまだ学校が運営されており、避難していない状態だった。その後、火砕流による被害の教訓から立ち入りが厳しい警戒区域が設定されて、その後の人的被害は1名のみとなっている。
 1991年(平成3年)9月15日18時57分。最大規模の火砕流が発生。火砕流は水無川沿いに流下していったが、その際に発生している熱風(火砕サージ)が大野木場小学校を襲った。


全焼した大野木場小学校

 火砕サージにより高温のガスが大野木場小学校を襲った。
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 高温というのは想像つかないかもしれない。
 おおよそ数百℃。
 全てが焼け焦げる温度。
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 当然校舎は全焼した。校舎内を見ると床が全てなくなっている。
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 全てのガラスが失われているが、これは高温というよりも熱風の勢いで割れたのだろうか。
 (ガラスが溶けるには1000℃以上必要なはず)
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 理科室の様子。
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 机や床は全て燃えてしまった。
 あるのは水道と流し台だけ。
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 どれだけ高温の熱風が襲ってきたのか。その痕跡が痛々しい。
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 場所によってはガラスが残っているところもあった。
 これは火砕サージの進入方向などが影響しているのだろう。

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校庭も高温にさらされた

 校舎が高温の火砕サージによって全焼したが、当然校庭にあるものも高温にさらされた。
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 とりあえず戦前製の二宮金次郎像は無事。
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 鉄棒はぐにゃりと曲がっている。
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 これほど曲がるとは、温度的には1000℃近い火砕サージだったのかもしれない。
 先ほどのガラスも1000℃に近い温度になれば柔らかくなって強度が落ちていたのかもしれない。
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 そして、砂場の縁にある木は焼け焦げていた。
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 焼け焦げるというよりも炭になっている。
 どれだけの高温がおそったのか。自分がここにいたらと思うと、恐ろしい。


復活したイチョウ

 校庭には立派なイチョウの木がある。
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 これは植え替えたわけではなく、被災時に焼け焦げたイチョウが、生き延びて緑を取り戻したもの。
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 ブランコの横にそのイチョウはある。
 なぜ全景を撮らなかったのか後悔する1枚。

 かつて原子力発電所が稼働していた町には、時が止まった回転寿司屋がある。


福島第二原発がある町

 福島県双葉郡富岡町。
 福島第二原子力発電所がある町。
 そして、福島第一原子力発電所事故による帰還困難区域の南端の町。
 現在は、東京電力福島復興本社がある。
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 津波でやられた富岡駅も復旧し、新しい駅舎ができた。
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 少しずつ、復興していっていると言えるだろう。
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 放射線量もほぼ正常と言っていいレベル。

 富岡町は避難指示区域になっていたが、2017年4月1日より解除されて、再び人が住めるようになった。
 とはいえ、町の人口(住民票登録数)は2019年8月末時点で12,865人に対し、実際に住んでいるのは1,107人。まだ10%にも満たない人々しか戻ってきていない状況である。復興への道のりはまだまだ長い。


そこには2011年の3月があった

 一時期警戒区域となって立ち入りが制限されていた富岡町。現在は一部区域を除いてそういった制限は解除されている。帰ってきた人々に店がなかったら困るということで、富岡町が設置したさくらモール(スーパー、ドラッグストア、ホームセンターが入居)の向かいには回転寿司屋がある……いや、あった。
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 「回転寿司アトム」と、このご時世で聞くとなかなかシュールな名前になってしまった。おそらく、原子力発電所が近くに立地していることから付けた名前なのだろう。もっとも、それは深く考えて付けられた名前ではないのかもしれない。震災直後の週刊誌にはこの店が原子力ムラの象徴などと書かれた。
 店の駐車場は現在富岡町交流サロンの駐車場になっている。この交流サロンとは帰宅困難区域に一時帰宅する場合や、遠隔地に避難した人々が帰省する際の休憩所として使えるようにしている施設である。
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 駐車場は活用されており、建物に囲いがあるわけではないので、ただの一時閉店しているようにも見える。ただ、窓から中を覗いてみると、店の中は2011年3月11日で止まっていた。
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 テーブルの上の醤油差しもそのままの状態。
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 値札を見ると、当然、消費税は5%だ。
 いくら何でも震災から8年も経てば片付けることはいくらでもできたはずなのに、ほぼそのままの状態で残っているのが生々しい。
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 窓側の(たぶん)水のサーバーに入っている水は緑色に変色し、実はお茶が入っていたんじゃないかと一瞬思った。それだけの長い年月が流れている。

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いつまであるかわからない

 この店の主は現在いわき市で焼き鳥屋を営んでいるという。
 このお店については2018年2月に取り壊すという意向が示されていたが、訪問した2019年2月現在ではまだ残っていた。とはいえ、行政が関わらず民間所有である上に、震災遺構として残す意向も示されていないので、いつまで残っているかわからない。もしかしたら取り壊されているかもしれない。
 原子力発電所事故は、ある日突然そこから去らなくてはいけなくなる。そこには生活していたそのままの状態で、何年も戻れなくなることがある。そのことを実感する場所であることは間違いない。

 震災遺構が数多く残る、陸前高田市。
 新しい施設がオープンしたので、行ってみた。


高田松原津波復興祈念公園が一部オープン

 2019年9月22日。釜石で開かれるラグビーワールドカップに合わせるように、陸前高田市に高田松原津波復興祈念公園が一部オープンした。この施設は以下の施設から構成される。
 ・道の駅高田松原
 ・岩手県東日本大震災津波伝承館(いわてTSUNAMIメモリアル)
 ・高田松原国営追悼・祈念施設
 ・震災遺構「奇跡の一本松」
 ・震災遺構「陸前高田ユースホステル」
 ・震災遺構「道の駅高田松原タピック45」
 ・震災遺構「下宿定住促進住宅」
 ・震災遺構「気仙中学校」
 これらの施設が集結しており、東日本大震災における津波被害を学ぶ場としても最大の施設となる。
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 というわけで、早速行ってきたよ。


道の駅・高田松原

 震災によって道の駅高田松原タピック45が被災し、その後営業休止中となっていた道の駅高田松原が約8年半ぶりにオープンした。
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 津波復興祈念施設を兼ねているため、モノトーンな建物。
 かなりでかく感じるが奥行きがないためそれほど大きい施設というわけではない。
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 鳥取のすなば珈琲が出店してた。
 公式ホームページでは一切存在が書いてないが、たぶん本物だろう。鳥取県知事のお花もあったし。
 内部は所謂普通の道の駅と同じ地場産品販売とレストランなどなど。
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 天丼食べた。
 まぁ、普通。

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岩手県東日本大震災津波伝承館(いわてTSUNAMIメモリアル)

 道の駅高田松原と同じ建物に岩手県東日本大震災津波伝承館(いわてTSUNAMIメモリアル)がある。
 岩手県が設置した震災伝承施設である。
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 陸前高田市にあった旧・気仙大橋の橋桁が展示されている。
 気仙川河口から500mの地点にかかっていた気仙大橋だが、津波によって橋桁が流された。
 津波の威力により橋桁は折れ曲がり、307m上流に流された。重さは2.5t。これほどの重さのものでも、津波は流していく、その威力はすさまじい。津波はそのまま気仙川を8kmも遡って、山間の集落にも被害を与えた。
 この気仙大橋は国道45号線の橋で、この橋が流されたことによって仮橋が開通するまでの4ヶ月間、かなり上流まで行かないと川を渡ることができず、迂回を強いられた。
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 こちらは津波によって流された田野畑村消防団の消防車。
 津波にのみ込まれ山際まで押し流された。乗車していた消防団員は奇跡的に無事だった。
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 津波で被害に遭った看板などが展示されている。
 他にも国土交通省の国道啓開作業である櫛の歯作戦についての展示、東北地方整備局のオペレーションルームの再現施設などがあった。
 基本的には映像資料多めなので、震災遺構と呼ばれるものは少ないが、それらは外にたくさんある。
 特に、消防団、漁業無線局、地元建設業者、自衛隊、後方支援活動、消防、警察の果たした役割などがまとめられており、初めて知った情報も多かった。
 特に漁業無線局では本来地上同士の交信は違法だが、連絡が通じない中で千葉茨城の陸上局を経由して岩手県庁に避難者情報などを伝えた話は初めて知った。
 地元民の意向が無視されて決められた展示施設と地元の方は言っているらしい。ただ、この施設は「岩手県の」施設だ。広く被害を受けた岩手県全体を網羅した展示にしなければならないだろう。そういった意味で、陸前高田のことを残すのであれば、陸前高田市が主導となった施設を整備する必要があるだろう。


奇跡の一本松と陸前高田ユースホステルと太平洋

 道の駅と津波伝承館の裏側には海へ向かって道が続く。
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 大きな大きな太平洋に向かって。
 突然津波という牙をむいた太平洋に向かって。
 多くの人やものを飲み込んだ太平洋に向かって。
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 海岸では松原の再生事業が始まっていた。
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 振り返ると陸前高田の街が見える。
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 そこから遊歩道で陸前高田ユースホステル跡地に行くことができる。
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 そして、その傍らには奇跡の一本松がある。
 奇跡の一本松については以前の記事を参照して欲しい。



旧・道の駅「高田松原タピック45」

 被災した道の駅は現在整備工事中。
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 特徴的な建物を裏から見るとこんな感じ。
 津波エネルギーを分散させることを考えてこの形になったらしい。
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 これから整備されて公開される予定。

 このほか、震災遺構施設は「気仙中学校」「下宿定住促進住宅」などあるが、現在整備中。今後、整備が終われば様々な震災遺構施設を見ることができ、震災学習の一大拠点となる。今回のオープンは陸前高田の震災復興において一つのマイルストーンになったのではないだろうか。


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旧・米沢商会ビル

 そういえば以前紹介した米沢商会ビルのその後が気になったので行ってみた。

 JRBRT陸前高田駅に行ってみると、同じ場所にそのビルは建っていた。
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 周りはかさ上げによって高くなったため、中国の立ち退きに反対しているビルみたいになっている。
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 これ、雨水とかたまらずにちゃんと流れていくのだろうか。
 公的支援が入らず、民間によって保存されているだけに今後が心配だ。

 震災遺構が数多く残る陸前高田市。
 後編は大物登場でございます。


旧・気仙中学校

 「気仙中学校前」というバス停で降りる。
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 周囲に民家はなく、乗降する客は限りなく0に近いと思われる。
 もちろん、震災前には周りに民家があったらしい。「あったらしい」としか書けないほど周りは復興事業によって工事されており、震災後の航空写真でも、全て流されてしまっているのがわかる。
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 3階建ての校舎の窓は全て破壊されている。それだけの津波が襲ったのだ。
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 津波の高さは14.2m。校舎の屋上の高さすら超えている。
 これでは、屋上に避難していたとしても助からない。50cmの津波でも成人男性の80%が流されるのだ。
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 気仙川の河口に位置する気仙中学校は教職員の機転により命が失われることはなかった。
 気仙川の水が引いて、川底が見えたことで津波が来ることを確信し、避難を開始した。最終的には4カ所ほど場所を変えながら、上へ上へと避難した。
 もし校庭に避難していたら、もし屋上に逃げていたら、全員が無事ということにはならなかったかもしれない。津波の際にはとにかく高いところへ逃げること、それしかない。


旧・道の駅高田松原

 陸前高田市の海岸沿いには道の駅高田松原があった。岩手県内で最初に認定された道の駅だった。
 震災によって、道の駅どころか名前に入っている松原自体も津波によってなくなってしまった。
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 訪れたときは近寄ることもできなかった。
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 一見普通に建っているように見えなくもないけれど、やはり破壊されている。
 この特徴的な形の建物は津波避難施設としての役割も併せ持っていた。海側からの登りやすさなどを考慮して三角形の特徴的な外観をしている。
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 内部はめちゃくちゃに破壊されており、鉄骨なども「ぐにゃり」と曲がってしまっている。ものすごい力だ。
 津波によって建物の上部をわずかに残して水没した。なんとか3人が屋根裏まで逃げて難を逃れることができた。水位がどんどん上がってくることに、恐怖を感じたことだろう。
 道の駅高田松原はついに2019年9月22日に移転再オープン予定。
 この旧道の駅は震災遺構として保存される。

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旧・米沢商会ビル

 JR大船渡線陸前高田駅は、BRTの駅としてかさ上げされた新市街がある高台にオープンしている。
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 バスの駅だけど、みどりの窓口もある。
 新しいバスの駅から海側を見渡すと、ビルが1棟残っているのが見える。
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 ただ、ぽつんと残るビル。
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 これが旧米沢商会ビル。
 周囲がかさ上げして土の下埋まっていく中、ここだけは元の高さが残っていることがわかる。
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 津波によって窓は全て無くなっている。
 それでも耐震性には問題がないとのこと。頑丈に作られた建物は津波に耐えた。
 そして、この建物の保存に公費は使われておらず、所有者の負担によって保存することとなった。
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 屋上の上、ほんのわずかだけ高くなっている部分、そこの部分まで津波が押し寄せた。
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 まさにギリギリである。
 米沢商会の店主でビルの所有者はここで津波から逃れ、助かった。
 1m四方の一人分のスペースしかない。津波が襲ったとき、見渡す限りあたり一面は水で覆われていたはずだ。そこで見た光景はどんなものだっただろうか。これ以上、水位が増すのか、次の波が来たときはどうなるのか。想像するだけで恐ろしい。

 東日本大震災で多くの犠牲者が出た陸前高田市。
 その数は石巻市に次いで多く、実に1,757名にもなる。


街が壊滅した陸前高田

 アナウンサーが読み上げるニュースで耳を疑うことというのは、それほどないと思う。自分の記憶の中でそれほどない耳を疑うニュースがどんどん飛び出していたのが、震災直後のニュースだった。特に印象に残っているのは「消防庁の発表によりますと、岩手県陸前高田市はほぼ壊滅状態とのことです」「JR仙石線は2本の電車の行方がわからなくなっています」の二つ。言ってる意味が分からないと最初思ったものだった。
 そんな陸前高田市には震災遺構が数多く残っている。
 陸前高田の震災遺構は奇跡の一本松だけじゃない。


奇跡の一本松と陸前高田ユースホステル

 震災前、陸前高田の海岸には松林が広がっており、その中に陸前高田ユースホステルがあった。
 松林はすべて津波によって流出したが、そのうち1本だけ流されずに奇跡的に耐えた。
 それが有名な奇跡の一本松である。
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 残念ながら奇跡の一本松は塩害により枯れてしまったが、科学の力を惜しみなく投入しサイボーグ化(というより剥製に近いか)してなんとか今ここに立っている。ちなみに、その作業の際に取り払われた枝から陸前高田市の市長印が作られている。
 震災直後に多額のお金をかけて、いま奇跡の一本松はここに立っている。もちろん、このお金を被災者に回した方がいいのではないかと批判があった。被災者自身もそういう意見が多かったし、全国の人もそう思っていた人が多くいた。自分もそう思っていた。でも、今になって思えば、この奇跡の一本松があることで、救われた気持ちもあったんではないかと思うし、(文字通り)一つの柱になるものがあるというのはいいことなのではないかと思う。
 今後はユースホステルの建物やその他周辺一帯を復興公園として整備される予定。

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旧・下宿定住促進住宅

 奇跡の一本松から国道45号線を大船渡方向に向かうと、マンションが残っている。
 旧・下宿定住促進住宅だ。
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 この5階建ての共同住宅を津波が襲った。
 側面をよく見てみると津波到達位置を示す看板が見える。
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 14.5m。この街を襲った津波の高さだ。
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 この写真を見てもらえばわかるとおり、4階までめちゃくちゃになっている。
 では、5階は安全だったかというと、浸水してる。なので、安全だったのは屋上に上がった場合だけだった。


旧・大船渡線踏切

 国道45号線から横の道に入ると、かさ上げ工事が行われている中に踏切が残っていた。
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 この踏切の部分だけ線路が残っている。もしかしたら、もうないかもしれない。
 大船渡線は津波により大きな被害を受け、この区間はバスによる復旧となっている。もう、ここに列車が走ることはない。周囲がかさ上げされてもここだけ残っているのが不思議である。


ガソリンスタンドの看板

 道の駅陸前高田跡地(次回紹介)の向かい側にガソリンスタンドがあった。
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 私が行ったときには元々国道45号線沿いにあったガソリンスタンドは道がつけ変わったことによって、このときは脇道の行き止まりにガソリンスタンドがあった。
 高いところにある看板のてっぺんにまで津波が到達していたことを示している。
 残念ながら今はこの場所にガソリンスタンドはない。かさ上げ工事の支障となるために移転したのだ。
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 看板は新店舗に移設された。岩手県の屋外広告条例により元の高さにすることはできなかったため、低い位置になってしまった。ただ、この大きさと色は例外的に認められたらしい。

 東日本大震災で津波により大きな被害を受けた仙台空港。
 米軍の協力により、驚異的な早さで復旧し、「トモダチ作戦」の拠点となった仙台空港。
 そこから歩いて行けるところに、災害遺構がある。


岩沼市沿岸の津波避難場所整備

 宮城県岩沼市の沿岸は津波被害を受けた地域である。元々、いくつか集落があったが災害危険区域に指定されたこともあって、集団移転を余儀なくされた。その跡地に震災で岩沼市で発生した瓦礫の9割を使用して、津波避難施設が作られた。
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 これらの津波避難施設は「千年希望の丘」と名付けられて、6つの公園とそれを結ぶ園路で構成されている。今回は、そのうちの災害遺構としても保存されている公園を紹介する。


空港から歩ける相野釜公園の災害遺構

 仙台空港から歩くこと徒歩20分。ちょっと歩くにはしんどいか。
 歩けなくはないところにある、千年希望の丘中心施設となる相野釜公園。
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 駐車場に車を止めるとまず目に入ってくるのは倒れた火の見櫓だ。特に説明書きもなく、ただただ倒れたままに 置かれてる。
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 そのまま奥に進むと、家の基礎だけが残っているゾーンに入る。広々とした園内から想像できないけれど、ここには家々があった。
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 今では、基礎だけになっている家が悲しさを増幅させる。ここに家があった人は、これを見てどう思うか。ひと思いに壊してしまいたい、そんな思いを持つこともあるかもしれない。
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 古い家はトイレが基礎と直結しているせいか、だいたいトイレの便器も残っている。今まで見た震災遺構に共通する特徴。この知識役に立たないけどね。
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 繰り返すけど、確かにここには家があって、集落があって、136世帯417人の人々が暮らしていた。そして、東日本大震災の津波によって全ての家が被害に遭って、今はこの地域一帯が第一種災害危険区域に指定されている。第一種災害危険区域内では一切の住居を建てることができない。つまり、この地域に住んでいた人は皆この土地から離れることを余儀なくされた。こういったことは岩沼市に限らず、東北沿岸のどこの市町村でも発生している。

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相野釜公園の津波避難施設

 相野釜公園の中には津波避難施設となる丘が2つある。
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 岩沼市としては、津波多重防御として、防潮堤・千年希望の丘・貞山堀の護岸・かさ上げ道路(玉浦希望ライン)の4種類を整備し、津波から防御あるいは威力を弱めることにより、避難する時間を作るという津波対策をしている。海岸から山が近くにないということもあって、そのような対策になっているようだ。リアス式海岸では山が近くにあるけれど、その分津波の遡上高が上がり威力も増す一方で、平野部であれば遡上高はそれほどでもないけれど避難する場所がないということなので、避難施設を作ることが有効となる。
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 2号丘からは仙台空港がよく見える。ちなみに仙台空港至近には名取市北釜防災公園という同じコンセプトで作られた津波避難施設があり、そちらの方が飛行機の離発着はよく見える。
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 名取市側には一軒だけ残っている家があった。 
 この家はどうするのだろうか。


石蔵が残る二野倉公園

 回りがソーラー発電所だらけの二野倉公園。
 そこに一軒の石蔵が残っている。当然、ここにも集落はあったのだ。
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 このあたりの津波浸水深は5.1m。住宅の2階まで達するような高さまで津波が来ているにもかかわらず、この石蔵はなんとか耐え抜いた。回りの木造の家は流れるか、壁が破壊されて柱だけの状況になっているにもかかわらずである。
 さすが、石蔵と言わざるえない。さすがに、この頑丈さで全ての建物を作るのは無理だけれど。


生き残った大銀杏がある長谷釜公園

 さらに南下をしていく。
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 長谷釜公園の中には神社が残っている。正確にはここは公園内ではないかもしれないけれど。
 その中でひときわ目に付くのが大銀杏だ。高さ18m、樹齢約300年以上。この大銀杏は津波に耐えた。おそらく、何回もの津波を経験して耐えてきた。
 この銀杏は今でも生きている。写真は冬の写真なのでわかりにくいが、春には新芽が芽吹き、秋には黄色く葉を染める。幾度となく、襲われた津波に耐えたのだ。そして、これからも耐えるのだろう。

 大規模な地すべりにより、橋は土台から崩れた。
 今回は橋が保存されている場所を紹介する。


宮城・岩手内陸地震

 2008年6月14日8時43分。
 岩手県内陸南部を震源としてM7.2の地震が発生した。
 岩手県奥州市や宮城県栗原市では最大震度6強を観測した地震である。
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 この地震による建物被害は軽微だった一方で、山間部における山体崩壊、土砂崩れ、河道閉塞が多く発生した。

旧祭畤大橋

 岩手県南部の代表的な景勝地である厳美渓から、秋田県境に向かっていく国道342号線。
 その国道の途中左手に異様な姿をした橋を見ることができる。今回紹介する旧・祭畤大橋だ。
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 ちょっと国道からは離れているので漫然と走っていると通り過ぎてしまうかもしれない。
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 橋桁が水海に落ちているのがわかるだろうか。
 離れたところにあるが、元々の国道342号線はそこを走っていた。
 宮城・岩手内陸地震によって、大規模な地すべりが発生し、秋田側(写真右側)の橋台、橋桁どころか地盤自体が宮城側(写真左側)に10m移動したことによってこの橋は崩壊した。
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 この橋は耐震設計なされていたにも関わらず崩壊した。当時はあり得ないこととして、手抜き工事や設計ミスなども視野に入れて調査が行われた。その調査結果によると、橋梁を支える橋台や橋脚が地盤と共に10mほど地すべり性の移動したことにより崩壊したことが判明した。
 震央からわずか1km程度しか離れていない場所であったためか、地盤自体が動いてしまっては、耐震設計をいくら行っていても崩壊してしまう。
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 ちなみに今使用されているのが二代目祭畤大橋、地震で崩壊したのは初代祭畤大橋。二代目祭畤大橋の下を覗くと、橋が見える。これは地震には関係なく、初代祭畤大橋が開通するまで使用されていた祭畤橋である。
 こちらはそれほど大きくないせいか、使用されなくなり放置されているにもかかわらず、落橋することはなかった。使用されなくなって40年以上経過し、もうこの橋へ行く取り付け道路自体が存在しない。

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祭畤被災地展望の丘

 この旧・祭畤大橋を見学するための施設として祭畤被災地展望の丘が整備されている。
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 ここには旧祭畤大橋の破壊された橋桁の一部が保存されている。
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 ここには地震の概要や、土砂災害の発生状況、復旧状況などの説明看板があるので、ここで地震についての知識を自転車操業で仕入れておきたいところ。


祭畤災害遺構見学通路

 祭畤被災地展望の丘から秋田側へ進み、祭畤大橋を渡り終わったところを左折したところに、祭畤災害遺構見学通路がある。ここを見学できるのは9時~16時。
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 旧・国道342号線に歩道が設置されていて、歩くことができる。
 当然地すべりで、国道は崩壊している。
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 ここまで道が波打っているのは、地滑りを起こしたからだ。大量の土砂がそのまま移動したのである。
 歩道の階段に注目して欲しい。道路にもともと傾斜があったとしてもここまで階段が必要になるようなことにはならないし、傾斜が急だったとしたら均等に階段が必要になるはずである。ここでは、平らの部分と階段の部分が分かれている。それだけ不均等に沈下したことを示す。
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 最後は展望台のようになっているところが終点。
 ここで道はぶっつりと途切れている。その姿はまるでジャンプ台のようだ。


河道閉塞の現場もある

 この現場から国道342号線を一関方向に行くと河道閉塞の現場がある。
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 河道閉塞とは土砂崩れによって河川が埋まり、水の流れをせき止めることによって天然のダムができることである。これを放置すると、人工で造ったダムと違って堤体が脆弱なので崩壊し、一気にたまっていた水が下流を襲うことになる。当然、急激に水量が増えるわけで下流では洪水、氾濫、橋の損傷などの被害が考えられる。
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 そんな天然ダムが発生した場所。地震後に排水ポンプを設置して下流へ水を流そうとするが、限界があるので地震発生後4日間で一次仮排水路を設置。これによって天然ダムの水位上昇を抑制した。とはいえ抑制なので次に二次仮排水路を地震後22日目に完成し10年に1度の洪水は排水できるようになった。その後、本設の河道を掘削し、現在は100年に1度の洪水まで耐えられるようになっている。
 特に一次仮排水路や二次仮排水路を作るところまでは特に時間との勝負であったと思われる。今でこそ、この場所は平和そうであるけれど、一関市民の命がかかった工事が行われていたのである。

 東日本大震災で多くの駅が被災し、跡形もなくなった。
 けれど、わずかながらも被災した姿を残している駅がある。
 今回は、その駅を紹介する。


JR仙石線野蒜駅

 海沿いを走るJR仙石線の松島海岸と石巻のほぼ中間に、野蒜(のびる)という駅がある。
 震災前この駅では日中必ず列車同士の行き違いが行われていた。震災当時もこの駅で上り下り双方の電車が発車した後、地震が起こった。下り快速電車の3353Sは野蒜駅発車直後、たまたま高台に停車したため無事だった。この場所で停車し避難しなかったことで、犠牲者はでなかった。一方、上り普通電車の1426Sは平地に停車したため、津波によって流された。流された仙石線の映像を見た人も多いと思う。上り電車の乗客は津波が来る前に近くの小学校に避難していたが、そこも津波に襲われた。
 JR仙石線はこの震災で大きな被害を受けた地域について、別線での復旧を行った。そのため、新しくできた高台の住宅地に線路も駅も移ることになったため、元々の野蒜駅は廃止された。
 そんな命運を分ける上下行き違いが行われた旧・野蒜駅は現在東松島市震災復興祈念公園として整備され、公開されている。


野蒜駅2013

 そんな野蒜駅に震災から2年7ヶ月後に訪問した。
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 この時、駅前では近所の方々がお茶会を開いていた。
 話を聞くと仙石線の移設反対運動をしているという。
 この時野蒜周辺では高台に街自体を移転し、線路も移設するという計画が持ち上がっていた。仙石線の復旧は街の移設とセットである。仙石線が高台に移設されるということは、造成工事を行う時間の分、再建が年単位で遅れることになることを意味する。その場で復旧するならば、住民もその場で今すぐにでも自宅を再建することができるのに。
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 駅舎から裏手に回り、ホームを見る。
 細かい砂に覆われているのがわかる。津波で流されてきた砂だ。
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 当然、津波の勢いは強かったものの、ホームや上屋、駅舎自体も被害はあるもののその場にとどまることができた。
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 しかし、すでに移設が決定していたため、ここに電車が来ることはもうない。
 復旧することはないので、何も手が付けられていない状態だった。

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野蒜駅2018

 あの時から5年が過ぎた。
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 この5年間の間に、仙石線は内陸部に移転し、新しい野蒜駅ができた。
 仙石線の運行形態も大きく変わった。仙石東北ラインの開通に伴い高城町から仙台間は東北本線でショートカットする列車の運転も始まった。
 それでも、5年前に見た駅舎はその場所に残っていた。
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 各自治体1カ所のみ震災遺構を保存整備する費用が国から援助されるため、東松島市はこの旧・野蒜駅を保存することに決め、震災復興メモリアルパークとして整備された。
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 裏手に回るとホームと線路が残っていた。
 以前の写真と比べると、きれいに整備されている。
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 反対側に移動すると津波で流された線路を残っている。
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 なぎ倒された電柱も見える。
 しかし、ある意味きれいすぎる状態での保存である。
 あまりにもきれいすぎて、津波の威力を実感させる力が減ってしまっている気がしなくもない。


震災伝承館

 野蒜駅の駅舎だった建物は現在、改装されて「震災伝承館」として使われている。
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 震災当日の映像や東松島市の被害状況などの展示があり、津波で破壊された野蒜駅の自動券売機なども展示されている。仙石線の被害についても詳しくまとめられていた。報道写真が多用されているため、館内の写真がないのはご容赦願いたい。
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 駅周辺にはまだいくつか家が残っている。
 高台への移転に反対した人々なのだろうか。
 復興への考え方の違いは、地域を分断し住むところすらバラバラになってしまったのだった。

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