あれから10年も。
この先10年も。
あの日から10年が経つ。
10年経って、震災復興は一区切りついたと言ってもいいだろう。
三陸沿岸を結ぶ三陸自動車道は、仙台~宮古間が今年度(2020年度)に全て開通した。かなり大きな橋を作る必要があった気仙沼市内区間も2021年3月6日に開通した。震災時ほんのわずかな区間しか開通していなかったが、震災によって整備が大きく前進することになった。釜石市内では津波被害者を避難施設に輸送するにあたり、この三陸自動車道が役に立った。高台を通る道路は津波からの避難場所にもなった。まさに、命を守る道路だ。
海辺には大きな大きな防潮堤が出来上がった。人々が住むところからは海が見えないほど、高い高い堤防が出来上がった。住民達の住居も造成を行い、かさ上げをしたり山を切り開いたりして、高い位置に移転した。震災によって受けた大きな傷跡は新しい街の形に生まれ変わった。
もちろん、個人個人では復興は終わっていないという人もいるだろう。復興が思い描いた形にはならなかったという人もいるだろう。様々な事情があるので、そう思う人がいてもおかしくない。
それでも、どこかで区切りをつけなくてはいけない。
それが今だと私は思う。
(当然、福島第一原発周辺についてはまた震災とは異なることを補足しておく)
東日本大震災の災害遺構で、おそらく最もインパクトのある場所を10年目のこの日に紹介する。
「震災遺構を1カ所だけ見るならどこがいいか?」と聞かれたときに、私はこの場所を迷わず選ぶ。
「最も津波の威力を実感できる場所はどこか?」と聞かれたときに、私はこの場所を迷わず選ぶ。
「最も心が揺さぶられる震災遺構はどこか?」と聞かれたときに、私はこの場所を迷わず選ぶ。
私が選んだ場所は「気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館(旧気仙沼向洋高校)」である。
2018年5月に私はこの気仙沼向洋高校を訪れている。
まだ震災遺構保存に向けた工事は始まっていなかった。
変わらず建っているように見えるが、よく見ると校舎に窓がない。
校舎の裏側に回ってみる。やはり下の階の窓は無くなってるし、壁も破壊されている。
なにやら大きい物が倒れている。これは元々あったものか、それとも流れてきたのか。
校舎内にはめちゃくちゃになった車が放置されていた。
また、何台もの車が押しつぶされているのもそのままになっていた。
この時点で震災から7年経過している。おそらく意図的に残しているのだろう。
まだ中が見学できない状態とはいえ、なかなかインパクトに残る震災遺構であった。
2019年3月に気仙沼市の震災遺構施設として気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館がオープンした。
というわけで早速初日に行ってみた。
大きく見える二つの校舎の前には新しい建物が建っていた。
駐車場には津波の被害に遭った国土交通省の作業車が展示されている。
めちゃくちゃとしか形容できない。
後部の被害はそれほどでも内容に見えるが運転席側の被害が大きい。
もう1台は運転席部分がそもそもなくなっていた。
3階までの窓は全て無くなっている。
このあたりまで津波が来たということ。
それでは内部に入っていこう。
入場料を払って入場すると、まずはシアターに入り映像を見る。
この映像は津波の映像が使われており、そもそも見ないという選択肢もある。ただ、なるべく見ておいた方がいいだろう。その後、写真展示があり、いよいよ建物内部の見学になる。なお、この伝承館内の写真撮影は禁止なので注意してもらいたい。
まずは南校舎の見学。
1階部分は天井が剥がれて全てが破壊し尽くされている。
階段部分にも瓦礫が残っている。
これが震災直後と同様なのかはわからないが、おそらくそうなのだろう。
給湯器があったり、車椅子があったりするところを見るとここは保健室だろうか。
砂の残り方が生々しいなって思う。
階段またはエレベーターで3階に上がる。
この階のメインは流された車である。
津波によって車が3階まで来たのだ。
3階なので地上から8mある。しかもこの車は南三陸町の人に代車として貸し出されていたものということで、当時どこで被害に遭ったのかわからないが、もしかしたら何kmも離れたところから流された可能性がある。
4階に上がると錆びたレターケースがある。
この錆こそが津波の痕跡であり、4階床上まで津波が来たことを示す。
この高さはおおよそ12m。12mもの津波がこの高校を襲ったのだ。
昔ながらのパソコンも水に浸かった。
このスポンジ状のものは後述する冷凍倉庫の壁材である。
4階は比較的被害が少なかったがそれでも泥がたくさんついていた。
屋上に上がる。
4階建てなので、もう屋上しかない。
北校舎が見える。
北校舎は窓枠が3階以上は残っているので、津波の流れは南側から校舎を襲い、南校舎によって威力が減じたというところだろうか。
屋上から見ると旭崎と呼ばれる高台が見える。
ここは膝上まで津波が来たそうで、ここに避難した8名は松の木につかまり波に耐えたとのこと。人間膝まで浸かると立っていられないのでよく耐えた。その後偶然流れ着いたアルミのはしごでケヤキの木に移り、その後流れ着いた2名を含め合計10名が助かった。このケヤキの木は明治三陸大津波の後、「樹木は命を救う」ということで植樹されたもので、東日本大震災でも10名の命を救った。
この高校では当時校舎にいた生徒達は他の高台への避難誘導が成功し、被害は出なかった。重要書類の待避なので残っていた教師や校舎の工事関係者の合わせて約50名が最終的にこの南校舎の屋上に避難することになる。結果的に4階の床上25cm程度で津波は収まったが、当時この場所に避難した人々は気が気でなかったであろうと思われる。少しでも高いところへってことで机を積んだりしたようだ。おそらく、階段室の屋根への避難を考えていたのだろう。
こちらは南校舎屋上から見る体育館跡地。
実際にはこれには大きなかまぼこ形の屋根があった。
津波によってその屋根部分が流れてしまい、コンクリート部分だけが残ったものである。
こう見るとやはり、コンクリートは強いと思う。もっともコンクリートの建物でも他の場所ではなぎ倒されたりもしているのだが。
それでは南校舎から外に出る。
さきほどの体育館は近くで見るとより無残な状態であることがわかる。
振り返ると南校舎4階部分が大きくえぐれているのがわかる。
これは冷凍倉庫が激突した跡だ。
内部から見るとこんな感じだ。
冷凍倉庫が激突とはまったく意味がわからないが、とにかく鉄筋の冷凍倉庫がぶつかったのだ。どれだけの大きさの倉庫がぶつかったのだろうか。前項でも簡単に述べたが、室内にはスポンジ状のものが残されており、冷凍倉庫の壁材は室内に流れていった。これが正面から衝突しなかったことで、この校舎が持ちこたえられたのではとも言われている。
北校舎とさらに北側にある総合実習棟の間にはたくさんの瓦礫や車が積み重なったまま残っている。
破壊の大きな大きな威力に驚く。
その後北校舎内を通って、元の伝承館に戻る。
被災後の生活に関しての展示やミニシアターで教訓などの映像を見て一通りの見学が終わった。所要時間はゆっくり見て90分ぐらいだろうか。映像上映のタイミングが良くて早足で回れば60分程度かかるだろう。
東日本大震災の震災遺構の多くを見てきたけれど、気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館が一番心を揺さぶられる。もしかしたら、思考停止してしまう人がいるかもしれない。でも、そこで終わってはいけない。
復興が進み、防潮堤が整備され、住居は高台に移転し、安全になったように思える。
それ自体の整備は命を守る、財産を守るという意味で無駄ではないが、それでも大きな地震が来たときに避難することを忘れてはいけない。震災では色々な理由で亡くなられた方がいるけれど、一番多いのは避難しなかったことによって亡くなったと思われる。避難していれば助かった命はたくさんある。死者数は何分の一にも減ったかもしれない。
大地震はいつか必ず起こる。大津波はかなりの確率で来る。そのとき、適切な行動ができれば生き延びることができるのだ。この施設を見学すると、そのことをイヤというぐらい実感させられた。
この先10年も。
10年という区切り
あの日から10年が経つ。
10年経って、震災復興は一区切りついたと言ってもいいだろう。
三陸沿岸を結ぶ三陸自動車道は、仙台~宮古間が今年度(2020年度)に全て開通した。かなり大きな橋を作る必要があった気仙沼市内区間も2021年3月6日に開通した。震災時ほんのわずかな区間しか開通していなかったが、震災によって整備が大きく前進することになった。釜石市内では津波被害者を避難施設に輸送するにあたり、この三陸自動車道が役に立った。高台を通る道路は津波からの避難場所にもなった。まさに、命を守る道路だ。
海辺には大きな大きな防潮堤が出来上がった。人々が住むところからは海が見えないほど、高い高い堤防が出来上がった。住民達の住居も造成を行い、かさ上げをしたり山を切り開いたりして、高い位置に移転した。震災によって受けた大きな傷跡は新しい街の形に生まれ変わった。
もちろん、個人個人では復興は終わっていないという人もいるだろう。復興が思い描いた形にはならなかったという人もいるだろう。様々な事情があるので、そう思う人がいてもおかしくない。
それでも、どこかで区切りをつけなくてはいけない。
それが今だと私は思う。
(当然、福島第一原発周辺についてはまた震災とは異なることを補足しておく)
最大級の震災遺構
東日本大震災の災害遺構で、おそらく最もインパクトのある場所を10年目のこの日に紹介する。
「震災遺構を1カ所だけ見るならどこがいいか?」と聞かれたときに、私はこの場所を迷わず選ぶ。
「最も津波の威力を実感できる場所はどこか?」と聞かれたときに、私はこの場所を迷わず選ぶ。
「最も心が揺さぶられる震災遺構はどこか?」と聞かれたときに、私はこの場所を迷わず選ぶ。
私が選んだ場所は「気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館(旧気仙沼向洋高校)」である。
2018年5月気仙沼向洋高校跡地
2018年5月に私はこの気仙沼向洋高校を訪れている。
まだ震災遺構保存に向けた工事は始まっていなかった。
変わらず建っているように見えるが、よく見ると校舎に窓がない。
校舎の裏側に回ってみる。やはり下の階の窓は無くなってるし、壁も破壊されている。
なにやら大きい物が倒れている。これは元々あったものか、それとも流れてきたのか。
校舎内にはめちゃくちゃになった車が放置されていた。
また、何台もの車が押しつぶされているのもそのままになっていた。
この時点で震災から7年経過している。おそらく意図的に残しているのだろう。
まだ中が見学できない状態とはいえ、なかなかインパクトに残る震災遺構であった。
2019年3月の気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館
2019年3月に気仙沼市の震災遺構施設として気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館がオープンした。
というわけで早速初日に行ってみた。
大きく見える二つの校舎の前には新しい建物が建っていた。
駐車場には津波の被害に遭った国土交通省の作業車が展示されている。
めちゃくちゃとしか形容できない。
後部の被害はそれほどでも内容に見えるが運転席側の被害が大きい。
もう1台は運転席部分がそもそもなくなっていた。
3階までの窓は全て無くなっている。
このあたりまで津波が来たということ。
それでは内部に入っていこう。
南校舎1階
入場料を払って入場すると、まずはシアターに入り映像を見る。
この映像は津波の映像が使われており、そもそも見ないという選択肢もある。ただ、なるべく見ておいた方がいいだろう。その後、写真展示があり、いよいよ建物内部の見学になる。なお、この伝承館内の写真撮影は禁止なので注意してもらいたい。
まずは南校舎の見学。
1階部分は天井が剥がれて全てが破壊し尽くされている。
階段部分にも瓦礫が残っている。
これが震災直後と同様なのかはわからないが、おそらくそうなのだろう。
給湯器があったり、車椅子があったりするところを見るとここは保健室だろうか。
砂の残り方が生々しいなって思う。
南校舎3階・4階
階段またはエレベーターで3階に上がる。
この階のメインは流された車である。
津波によって車が3階まで来たのだ。
3階なので地上から8mある。しかもこの車は南三陸町の人に代車として貸し出されていたものということで、当時どこで被害に遭ったのかわからないが、もしかしたら何kmも離れたところから流された可能性がある。
4階に上がると錆びたレターケースがある。
この錆こそが津波の痕跡であり、4階床上まで津波が来たことを示す。
この高さはおおよそ12m。12mもの津波がこの高校を襲ったのだ。
昔ながらのパソコンも水に浸かった。
このスポンジ状のものは後述する冷凍倉庫の壁材である。
4階は比較的被害が少なかったがそれでも泥がたくさんついていた。
南校舎屋上
屋上に上がる。
4階建てなので、もう屋上しかない。
北校舎が見える。
北校舎は窓枠が3階以上は残っているので、津波の流れは南側から校舎を襲い、南校舎によって威力が減じたというところだろうか。
屋上から見ると旭崎と呼ばれる高台が見える。
ここは膝上まで津波が来たそうで、ここに避難した8名は松の木につかまり波に耐えたとのこと。人間膝まで浸かると立っていられないのでよく耐えた。その後偶然流れ着いたアルミのはしごでケヤキの木に移り、その後流れ着いた2名を含め合計10名が助かった。このケヤキの木は明治三陸大津波の後、「樹木は命を救う」ということで植樹されたもので、東日本大震災でも10名の命を救った。
この高校では当時校舎にいた生徒達は他の高台への避難誘導が成功し、被害は出なかった。重要書類の待避なので残っていた教師や校舎の工事関係者の合わせて約50名が最終的にこの南校舎の屋上に避難することになる。結果的に4階の床上25cm程度で津波は収まったが、当時この場所に避難した人々は気が気でなかったであろうと思われる。少しでも高いところへってことで机を積んだりしたようだ。おそらく、階段室の屋根への避難を考えていたのだろう。
こちらは南校舎屋上から見る体育館跡地。
実際にはこれには大きなかまぼこ形の屋根があった。
津波によってその屋根部分が流れてしまい、コンクリート部分だけが残ったものである。
こう見るとやはり、コンクリートは強いと思う。もっともコンクリートの建物でも他の場所ではなぎ倒されたりもしているのだが。
外部見学
それでは南校舎から外に出る。
さきほどの体育館は近くで見るとより無残な状態であることがわかる。
振り返ると南校舎4階部分が大きくえぐれているのがわかる。
これは冷凍倉庫が激突した跡だ。
内部から見るとこんな感じだ。
冷凍倉庫が激突とはまったく意味がわからないが、とにかく鉄筋の冷凍倉庫がぶつかったのだ。どれだけの大きさの倉庫がぶつかったのだろうか。前項でも簡単に述べたが、室内にはスポンジ状のものが残されており、冷凍倉庫の壁材は室内に流れていった。これが正面から衝突しなかったことで、この校舎が持ちこたえられたのではとも言われている。
北校舎とさらに北側にある総合実習棟の間にはたくさんの瓦礫や車が積み重なったまま残っている。
破壊の大きな大きな威力に驚く。
その後北校舎内を通って、元の伝承館に戻る。
被災後の生活に関しての展示やミニシアターで教訓などの映像を見て一通りの見学が終わった。所要時間はゆっくり見て90分ぐらいだろうか。映像上映のタイミングが良くて早足で回れば60分程度かかるだろう。
最も心を揺さぶられる震災遺構
東日本大震災の震災遺構の多くを見てきたけれど、気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館が一番心を揺さぶられる。もしかしたら、思考停止してしまう人がいるかもしれない。でも、そこで終わってはいけない。
復興が進み、防潮堤が整備され、住居は高台に移転し、安全になったように思える。
それ自体の整備は命を守る、財産を守るという意味で無駄ではないが、それでも大きな地震が来たときに避難することを忘れてはいけない。震災では色々な理由で亡くなられた方がいるけれど、一番多いのは避難しなかったことによって亡くなったと思われる。避難していれば助かった命はたくさんある。死者数は何分の一にも減ったかもしれない。
大地震はいつか必ず起こる。大津波はかなりの確率で来る。そのとき、適切な行動ができれば生き延びることができるのだ。この施設を見学すると、そのことをイヤというぐらい実感させられた。