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飛行機と食事とホテルとたまに観光地を淡々とアップするブログにおこしいただきありがとうございます。
当ブログの写真・文章の転載はご遠慮ください(法的に認められた引用を除く)。

タグ:東日本大震災

 帰還困難区域が設定されて、自由に立ち入れない場所がある。その場所は具体的にどこなのかまとめた。
 便宜上、災害遺構というカテゴリーに入れているが、決してこの場所は災害遺構ではない。
 当ブログに適切なカテゴリーがなく、この記事のためだけにカテゴリーを新設すると読者にとってもわかりにくいと思われるため、ご容赦願いたい。


福島第一原発事故に伴う帰還困難区域地図を作ったよ

 福島第一原子力発電所の事故により、現在も多くの地域で立入が規制されている。ただ、その一方で着実に少しずつであるが規制の緩和が行われており、立ち入れる区域も増えてきた。ただ、実際にどこに立ち入れるのか、どこに立ち入ってはいけないのか、一元的に管理した地図がなく、あったとしてもかなり簡略化した地図であるためわかりづらい。
 というわけでみんなが一番使用しているであろうGoogleマップのマイマップ機能を用いて、帰還困難区域、立入規制緩和区域、特別通過交通制度適用道路の地図を作成した。原子力発電所周辺の今を見たい人々の参考にして欲しい。


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福島県帰還困難区域地図

 出来上がった地図はこれ。リンクはこちらから。
無題




 各区域の解説は次の通り。

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帰還困難区域(要立入許可)

  オレンジ で示された区域は「帰還困難区域」である。
 定義は「放射線量が非常に高いレベルにあることから、バリケードなど物理的な防護措置を実施し、避難を求めている区域」となっている。
DSC01943
 この写真で言えば左は解除された区域、右は帰還困難区域。入ろうと思えば入れるけど入っちゃダメだよ。
 もっとも自分の家に帰る場合や、墓参り、工事などについては地元の役所で許可を得ることで立ち入ることができる。許可があればいくつかのゲートがあり、そこから立ち入ることになる。なお、宿泊は不可能。
 以前は「避難指示準備解除区域」「居住制限区域」「帰還困難区域」に分かれていたが、「避難指示準備解除区域」と「居住制限区域」については全て避難指示が解除されており、現在残るのは「帰還困難区域」のみとなる。
 詳細は福島県の復興ポータルサイトが詳しい。



福島第一原子力発電所敷地(要立入許可)

  ピンク で示された区域は「福島第一原子力発電所敷地」である。
 いわゆる、事故現場。
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 帰還困難区域内に存在するのだと思われる。この辺、重複しているのかそうじゃないのか不明。
 大量の地下水に悩んでおり、敷地内は水を溜めたタンクがいっぱい。
 現在、この水を薄めて海洋放出するかしないかで議論沸騰中。まぁ、放出量としては他の国が海に流している放射線量よりも低いので基本的には問題は無いはず。ちなみに文句を言っている韓国は、自分の国で日本が流そうとしている量よりも大量に流してるんだけどね。
 一度はちゃんと東京電力のホームページを読んでみた方がいいと思うよ。どんな意見だったとしても。




中間貯蔵施設区域(要立入許可)

  グレー で示された区域は「中間貯蔵施設区域」である。
 帰還困難区域の中にあって、重複して指定されていると思われるが、詳細不明。
 除染などででた、放射性物質を含む土壌や廃棄物を最終処分するまでの間、安全に集中的に保管する施設。最終処分する場所が決まってなくても、ものは出てきてしまうのでとりあえず保管する施設。保管期間はいつまでかって?最終処分場が決まるまでだよ。
 この区域の国道6号線沿いには中間貯蔵工事情報センターがあり、ここは申請なしで見学することができる。しかし、現在コロナの影響で閉館中。



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帰還困難区域解除済区域(立入許可不要)

  水色 で示された区域は「帰還困難区域解除済区域」である。
 この区域名は正式なものではないが、常磐線の開通に伴い帰還困難区域が解除となった区域(=特に規制がない区域)で、面的ではなく線的な解除になっている。具体的には周辺が帰還困難区域内にある夜ノ森駅、大野駅、双葉駅と帰還困難区域外を結ぶ道路と県立大野病院敷地のみが解除された。
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 よって駅へ通じる道路は通れるものの、周りは全て帰還困難区域なので封鎖されている。
 ただし、双葉駅については周辺が立入規制緩和区域となっているため、夜ノ森駅の新設された西側の出入り口は帰還困難区域になっていないため、このような状況にはなっていない。
 このほか常磐線鉄道用地と駅前広場についても同様に帰還困難区域が解除されているが、別項目としたので当該項目を参照して欲しい。


常磐線(帰還困難区域解除済・立入許可不要)

  エメラルドグリーン で示された区域は「帰還困難区域が解除された常磐線用地」である。
 常磐線と言えばやっぱりこの色だよね?(それは常磐線快速電車の色です)
 常磐線の運転再開に備え、この区間の鉄道用地(線路敷・駅舎・法地など)や駅前広場についても帰還困難区域の指定が解除された。よって特に規制がない区域となる。
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 大野~双葉間は震災前複線であったが、震災後の運転再開では単線とされた。旧上り線敷地はアスファルトで舗装されて避難通路として活用できるようになっている。推測の域を出ない話ではあるが、どちらかと言えば周辺は帰還困難区域であるため、立入には許可が必要であり時間が限られるので、保守などの作業がしやすいように道路を線路内に整備したっていう理由の方が大きい気がしなくもない。道路を整備しておけば保守などのためのトラックなども簡単に許可なく入れることができるので。もちろん、立ち往生したときに乗客をバスで運ぶのに活用できるということも否定しないが。


特別通過交通制度(立入許可不要)

  青色 または 紫色 で示された区域は「特別通過交通制度が適用されている道路」である。
  青色 は「四輪・二輪・原付」が走行可能で、 紫色 は二輪・原付の走行が不可能である。規制内容が異なるので注意されたし。なお、どちらの道路においても自転車や徒歩による通過は不可能である。
 基本的には通り抜けできなくて不便なところを通り抜けできるようにしたということだが、適用される道路が当初に比べてかなり増えた。常磐線とは違い、常磐自動車道はこの特別通過交通制度による道路である。
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 建物が建ち並ぶ場所ではこのようなバリケードが張られている。
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 山間部に行くとこんなにバリケードだらけではないが、「帰還困難区域内につき、長時間の停車はご遠慮ください」という看板が目に付くのでちょっとビビる。
 結構長距離に渡って通過する場合もある道路だが、この区域内では原則として人が立ち寄る場所はないので、当然トイレもない。車の外に出るのははばかられるので、ちょっと降りて用を足すわけにもいかない。なので、この区域を走る場合はあらかじめトイレを済ませておこう。
  ピンク色 の道路は「特別通過交通制度による道路」であるが、現在災害による路肩崩壊によって通行止めになっている道路である。通行の際には注意して欲しい。

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立入規制緩和区域(立入許可不要)

  黄色 で示された区域は「立入規制緩和区域」である。
 帰還困難区域内において、各町村が作成した特定復興再生拠点区域復興再生計画が国に認定されると、国による除染や廃棄物処理や、国による道路整備代行が行われる。これにより概ね5年以内に避難指示を解除して居住を可能とするものである。この計画・整備の一環として立入規制緩和区域が設定されて、制限付きではあるが許可不要で立ち入ることができるようになる。
 2020年3月に初めて設定された。立入規制が緩和されたものの、避難指示が解除されたわけではないため、宿泊はできない。
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 見た目は普通の住宅街。でも、人気はない。
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 公園とか遊具が植物に侵食されていってる。
 これは今後整備されるのかな。




というわけで

 これらの立入許可不要な区域は、私有地まで立ち入っていいものではない。
 当然、所有者が必ずいるので、所有者の許可なく私有地に立ち入ることがないようにして欲しい。

 作成に当たって経済産業省、環境省、復興庁、福島県、各市町村のホームページを参考にした。元の資料の解像度の低さなどによって、数m~数十m程度の誤差があるかもしれないが、精度についてはご容赦願いたい。特に南相馬市の帰還困難区域については詳細な資料が見つけられず、特に精度が低く、大きくずれている可能性があると思われる。また、人家がないような山林内における区域境についても同様である。
 明確な誤りがあった場合、コメント欄やTwitter、右上にあるメールアドレスまで、証拠資料とともにご一報いただければ幸いである。


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 あれから9年目の3月11日を迎える。
 津波に流されても助かった人がいた一方で、津波に流されて亡くなった人もたくさんいる。
 津波から逃れた奇跡がある一方で、津波にのまれた悲劇もたくさんある。
 今回は一番有名で、一番悲しい話。


消えた集落

 岩手県北部の岩手町から盛岡、花巻、北上、一関と通っていく、東北地方最大の河川である北上川は宮城県石巻市に河口がある。その河口の近くには釜谷という集落がある……いや、あった。

 ↓震災前2008年10月
CTO20082X-C8-14_
 ↓震災直後2011年3月19日
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 ↓震災後2015年5月
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 出典:国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)
 ※なお、掲載にあたり写真の回転、トリミング、縮尺変更、赤線追加を行った。

 この北上川の河口に位置する釜谷集落には108世帯の人々の住居があった。一番上の震災前の写真を見ると、それなりに家が建っているのがわかる。そして、真ん中の震災直後の写真では、その集落が跡形もなくなっているのがわかるだろうか。そして、下の写真では震災から4年経過したにもかかわらず、建物はなくなったままである。
 比較するとわかるが、震災によって新北上大橋の橋桁が一部流されて、下の写真では仮設の橋になっている。この橋は2016年6月10日に開通している。その他にも堤防の復旧や、集落内の道路の復旧が行われた。
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 その一方で、集落の復旧工事が行われているような気配はない。なぜなら、この集落全域が災害危険区域に指定されたからである。
無題
 出典:石巻市 災害危険区域の指定区域図(北上地域)
 ※なお、掲載にあたり図面のトリミングを行った。

 災害危険区域に指定されると、石巻市の場合、住宅や宿泊施設、病院、保育園などを建てることができなくなる(※市町村によって異なる)。つまり、上記の指定区域図によれば、平地の部分のほぼ全てにおいて住宅の建築ができないので、集落としては成立できず、復旧・復興はなされないということである。

 そんな元集落に唯一の建物がある。

 石巻市立大川小学校。

 多くの人々の記憶に刻まれた、小学校の名前。


津波の爪痕

 前項の空中写真に赤枠で囲ったところが、石巻市立大川小学校の敷地である。
 昔も今もそこに小学校の建物はある。すでに、小学校ではなくなったが。
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 この小学校の跡地は不思議な静寂に包まれていた。前項で書いたとおり、周りに人家はなく、津波の被害に遭った小学校だけが残っている状態だが、それだけでは説明できない静かさである。まるで、ここだけ周囲から切り取られたような、そんな静かさ。
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 立派な校門が切り取られ、ここに置かれている。
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 敷地に入ると、慰霊碑が目に入る。ここは津波避難の遅れにより、全校児童108名中74名(当時校内にいたのは78名)、教職員13名中10名(校内にいたのは11名)、その他地域住民や保護者、スクールバス運転手など多くの人々が命を落とした。
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 慰霊碑から見える教室の中を見るとたくさんの仏像や千羽鶴があった。
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 体育館であっただろうと思われる施設。
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 校舎と結ぶ橋は津波の威力によってひねるように破壊されていた。
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 柱やコンクリートの壁は残存しているが、大多数の壁はおそらく材質の違いなどによって破壊されている。黒板などは残存しているのに、壁がなくなっているのが不思議である。力のかかり具合などがちょっと違うだけでも、結果は大きく違うのかもしれない。
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 校舎は2階建て。屋上には上がれない構造になっていた。北上川河口付近とはいえ、河口から5km程離れており、ハザードマップでも河口から3km程までしか津波が来ないとされていたため、そのような配慮はされていなかった。
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 2階部分の室内を望遠で撮ってみる。こう見ると天井近くまで津波が来ていたことがわかる。つまり、屋上に出られない構造上、どうしたとしても助からなかったということになる。しかし、児童と教職員は当時校内に長いこととどまっていた。

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ここでなにがあったのか

 全校児童108名中74名(当時校内にいたのは78名)、教職員13名中10名(校内にいたのは11名)、その他地域住民や保護者、スクールバス運転手など多くの人々がこの場所で命を落とした。学校における事件事故で児童が犠牲になった人数としては戦後最悪のものである。
 地震直後、児童は教員の指示に従い、校庭で整列していた。市の広報車が避難を呼びかけていたという。校長が不在で指揮系統が定まらぬまま、避難するかしないか、どこへ避難するか議論が行われたという。裏山に逃げるのか、別の場所に逃げるのか。結果的に、堤防より高台になっているところへ逃げようとしているときに、津波が人々を襲った。
 地震発生から約50分後のことであった。
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 逃げようとしていたのはこの正面の木の左側のあたりである。
 横には新北上大橋が見える。北上川の堤防の高さに橋は架かっていることからわかるとおり、堤防よりもそれほど高い場所ではない。もし、ここまで逃げられたとしても、津波を避けることはできなかった。ここに津波が来ないと言うことであれば、そもそも北上川の堤防は越えてないわけで、避難する意味が一切なかったと言える。
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 出典:大川小学校事故検証委員会 大川小学校事故検証報告書
 原出典:防災ガイド・ハザードマップ 石巻市 平成21年3月

 震災前に作られていた津波のハザードマップによれば、この区域は津波浸水想定区域にはなっていなかった。他にも河口からは約5km離れており、北上川の堤防は6m、津波の到達予測も当初6m、また地元住民からのここには津波が来たことないから大丈夫だという発言が、そもそもここは避難しなくてはいけない場所なのかという考えに至る可能性があっただろう。


どうすればよかったのか

 どうすれば良かったのか。それは簡単と言えば簡単である。とにかく逃げること。ただ、逃げればいいということではない。どこに逃げるかが重要。
 大川小学校の人々は三角地帯と呼ばれる堤防際の高台へ逃げることを最終的に選択した。しかし、その判断は遅く、避難している途中で津波に襲われることになる。また、前項でも書いたとおり、避難できたとしてもそこも津波に襲われており、同様の結果となったと思われる。
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 学校の近くには、もっと高い場所があった。
 いわゆる、裏山である。
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 一つは、体育館裏手の斜面で、過去(平成21年頃まで)にはこの場所でしいたけ栽培の授業が行われていたとのことである。写真で見ると道状のものがあるが、これは昔からあったという人もいれば、震災後斜面に入る人が増えたためという人もいるため、以前からあったものと断定することができない。とはいえ、比較的なだらかな斜面であり、とにかく高い場所へ避難すると言うことであれば一つの選択肢であったことは間違い無い。
 しかしながら、木が生えているため中の状況がどのようになっているか不透明である。見えないところでの斜面の崩落など発生している可能性もあった。
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 もう一つは急傾斜ではあるが、崖崩れ防止工事が行われた斜面である。
 平成15年に崖崩れがあったときに工事が行われた。ここでは当時不在だった校長が斜面に登った経験があったり、震災前年には3年生児童が先生に引率されて一番下の部分に登った経験があるようだ。ここであれば目視した範囲で崩れていないか確認できるので、先ほどの場所よりも避難する決意がしやすいものと思われる。しかし、斜面はかなり急である。
 さらにこの右手の斜面も「大川小学校事故検証報告書」によれば学校の周辺状況の裏山の項にに記載されている。自身で撮影した写真がないため、詳細は記載しないが、最初の斜面とほぼ同様の条件のように思える。
 このように、避難できる場所は近くにあった。校庭で長いこととどまっていて避難するよりも、すぐさま裏山の斜面に逃げることが先であった。どうすべきであったかと言われればそれが正解だったということになるだろう。「Second Best, Tomorrow(最善でなくても今できることをやれ)」という言葉がある。最善の選択肢を選ぶのに時間をかけるよりもまず行動すべき、この時必要だったのはこれだった。


なぜそうしなかったのか

 そのように避難候補地があったにも関わらず、そこになぜ逃げなかったのか。
 林の中でその中の状況がよくわからず崩落などが発生している可能性がある斜面と、開けているが急な斜面の裏山に逃げるのかどうか判断にせまられることになる。「なぜあそこに逃げなかったのか」というのは簡単だが、現地を自身の目で見てその判断を自分ができるかというと難しいと感じた。地域住民も少なからず避難していたとのことなので、お年寄りから小学校低学年までの行動力に難がある人々の運命を抱えた中で、学校の教員がそこに避難するのを諦めたのは理解できなくもない。ましてや当日の天候は雪であり、滑る可能性があるなどなおさら判断が慎重になった可能性がある。
 誰が悪かったのか。
 過去全く経験も記録もないような大津波なのだ。それに対しきちんと対応できなかったことを行政や教員に求めるのは酷であると思う。しかしながら、裁判では学校と市教委に過失があったと認定された。その中で、「市の広報車が避難呼びかけた中で津波が来ることを予見できた(仙台地裁)」「校長らは、地域住民よりもはるかに高いレベルの知識に基づいてハザードマップの信頼性を検討すべきだった(仙台高裁)」と判決に記された。もちろん、避難計画の不備などはあったと思う。その一方で「(市が正しいと示した)ハザードマップの信頼性を検討」とは教員達に対し、非常な酷な要求ではないだろうか。
 誰も悪くない、次に同じことが起きた時に同じことにならないように、しっかり準備するべきであると個人的に思うが、そうもいかないようだ。一体、どこまでのことを想定すれば良いのだろうか。きりがないように思える。
 亡くなった人々に、合掌。


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災害と言うべきなのか、事故と言うべきなのか。


復興の象徴となる常磐線開通はもうすぐ

 富岡町のことについては以前書いた。

 現在も、状況はあまり変わらない。人口は増えず、街に戻る人もそれほど変わらず。ただ、今年の3月にまた一つの大きな出来事がある。常磐線の運転再開だ。これにより、震災によって傷ついた鉄路がすべて、何らかの形で復旧することになる。

 東日本大震災の被災地の中で、福島県沿岸部というのはちょっと毛色が違う。
 それはもちろん、長いこと元の場所で暮らすことが許されない地域であるからだ。それは今も続いていることであり、常磐線が運転再開しても規模が縮小されるとはいえ、そのような地域が今後も少なからず残ることになる。
 意味がないと言う人がいるかもしれない。
 それでも、鉄道が再び走るということは復興への一歩であり、それは復興の一つの大きな大きな象徴である。
 その一方で、これからも東日本大震災でおきた事故からの復興を目指す現場がある。今回紹介するのはそれを伝える施設である。


福島第一原子力発電所を学ぶ場

 福島第一原子力発電所の事故により、使えなくなった原子力発電所の廃炉作業が今も続いている。セキュリティの関係上、また放射線量の関係上、今はまだ気軽に福島第一原子力発電所を見学することはできない。ただ一体どのようなことがあの場所であの時おきて、今、何が行われているのか、あの原子力発電所で発電された電力を使っていた我々は知る必要があるだろう。
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 富岡町の新しいショッピングモール、さくらモールの道路挟んだ向かい側に、やけに西洋的な外観をした建物がある。この建物は元々東京電力エネルギー館という原子力発電所などのPR施設だった。震災後は閉鎖されており、福島第一原子力発電所へ向かう通勤バスの乗り場になっていた。
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 現在もその役割を果たしているが、それだけでなく2018年11月に福島第一原子力発電所事故において、何があったのか詳しい情報提供や廃炉事業の現状を知ることができる施設として、この建物を再利用して東京電力廃炉資料館がオープンした。       
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 入ってすぐに東京電力社長のおことばに出迎えられる。事故を起こしたことを反省している、その教訓を残す、そして現在を伝えるというのがその主旨だ。
 事故というものは事前に安全性を高めても、どうしても起こってしまう。我々はそこから何が原因だったか、どうすれば防げるのかを学ばなければならない。この場合に個人の責任を追及することに意味はない。最も重視するべきことは、もう二度と同じような事故を起こしてはならないということである。


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原子力発電所のあの時、あれから、今、今後。

 まず当日の地震発生直後から原子力発電所事故に至るまでをまとめた映像を見る。
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 そして、さらに細かく一体何が現場でおきていたのか、どのように対応したのか、細かく紹介するコーナーがある。時間毎にどのような状況であったか、どのような対応をしたのか、全ての原子炉の状況がわかるようになっていた。
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 途中には各原子炉を囲う建屋の模型もある。
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 それぞれ全く形が違うのが興味深い。
 事故からえられた教訓や反省も展示していた。
 後半はこれから福島第一原子力発電所はどのように廃炉にしていくのか、今どのような状況なのか紹介するコーナーになっている。
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 福島第一原子力発電所で働く人の数、4,160人。
 平均的な数字ということだが、これから廃炉に向けて段階が進む毎に増えたり減ったりするのだろう。まさに、福島第一原子力発電所の今を示す。その他にもロードマップを示し、今どの段階にあるのか原子炉毎に表示してある。もちろん、これらは段階が進む毎に変わる。今を示すという意味で常に新しい情報を知らせることができるよう工夫されていた。
 あくまで、ここは東京電力の施設である。展示内容が一方的であるとか住民への被害の状況などに関する展示がないことなど、批判する人もいる。ただ、福島第一原子力発電所でおきたことや現在、そして今後のことを説明することが第一であり、限られた展示スペースの中でかなり充実していると思う。映像系の展示が多いこともあって、じっくり見ると2時間程度かかるだろう。それだけ見応えがある。


双葉警察署の被災パトカー

 東京電力廃炉資料館の近くの公園には、津波によって被災したパトカーが展示されていた。
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 クラウンのパトカーだけど、原型を留めていない。
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 このパトカーに乗車して、津波の避難誘導を行っていた警察官2名は沖に流され殉職した。1名は30km離れた沖合で発見され、もう1名は現在も見つかっていない。
 見学した当時は公園に置かれていたが、現在は町が整備する震災と原子力事故のアーカイブ施設で展示するために修復を行っているという。アーカイブ施設は2021年夏頃オープンする予定だ。


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 地震の後、テレビで見た津波到達予想時刻は10分後だった。


荒野の中に佇む校舎

 東京日本橋から仙台まで、太平洋沿岸を走る国道6号。
 相馬から先仙台空港近くまでは、この国道6号よりさらに海沿いに福島宮城県道38号が走る。この県道38号は国道6号よりも信号が少ないため、抜け道として使いやすい。
 もちろん、国道6号よりも海沿いということは、津波の被害を大きく受けた地域でもある。
 農地の復旧工事が行われていて、荒涼とした風景が続く中を県道38号は走る。常磐線と平行していたはずだが、内陸に移設された為、その姿はない。その中で突然大きな建物が見えてくる。
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 山元町立中浜小学校である。正確にはその旧校舎だ。
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 遠くから見ると、きちんと建っているように見えるが、近くで見ると窓ガラスの多くがなくなっている。
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 当然、この校舎は津波によって大きな被害を受けた。


津波到達予想時刻まで10分

 大きな地震の後、大津波警報が発令された。
 テレビをつけると到達予想時刻まで10分だった。
 事前に訓練していた避難場所(坂元中学校)まではどんなに急いでも20分はかかる。
 とても間に合わない。

 地域住民の方も避難してくる。
 全員で屋上に避難することにした。屋上には倉庫がある。
 児童・職員・地域住民合わせて約90名が避難し、一晩を過ごす。

 元々の防災意識の高さ、前々日の前震によって、このような瞬時の判断ができた。

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津波は2階の天井まで来た

 実際には地震発生から1時間後に津波が到達した。
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 津波は2階建ての建物の2階まで到達した。
 当然2階の窓ガラスもなくなっている。
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 入れないように金網が設置されているところから中を覗く。
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 全てのものを洗い流すかのように、津波が襲った。
 もちろん、瓦礫が多数流れ着いたのだが、それはきれいに清掃されている。
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 窓ガラスを割っただけでなく、サッシももろとも流していった。
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 重要なものが入っていたであろう金庫も破壊されている。


裏に回ると倒れた時計塔

 校舎の裏に回る。
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 倒れた時計塔が目に入る。
 よくこの校舎が耐えられたなというのが感想。
 手前には破壊された「中浜小学校」の校標が。
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 唯一規制されていなかった階段から2階部分を見る。
 音楽教室のあたりは比較的浸水深が低かったとされる場所。
 それでも、おそらく白い壁のシミぐらいまでは浸水したんじゃなかろうか。
 もし、2階に避難するという判断をしていたら、完全にアウトだった。
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 昇降口から中を見る。
 やはり大きな力によって様々なものがひしゃげている。
 その一方で壁に張り付いていた下駄箱は無事だった。
 壁がある場合、力のかかり具合が違うのだろうか。
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 ここは職員室だろうか。
 黒板に書かれた児童数、担任名が妙に生々しく見える。
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 そして流されてきたものが柱に絡みついていた。


瞬時の判断が生死を分ける

 こちらの小学校は瞬時の判断で命を落とすことがなかった。
 ・10分しかないので指定避難所に逃げるのは不可能という判断ができたこと。
 ・屋上に屋根裏の物置部屋があるという装備と知識。
 ・いつでも津波は来るという危機感の共有。
 これらによって、全ての命が救われた。

 でも、それができなかった学校もある。それはまた近いうちに書きたいと思う。


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高さ17mもの津波が海辺に建つホテルを襲った。


震災遺構「たろう観光ホテル」

 今回紹介するのは東日本大震災における災害遺構で確実に北の大物というべき物件。
 宮古市北部の田老という街にそれは存在する。震災遺構「たろう観光ホテル」だ。
 たろう観光ホテルは1986年にオープンした観光旅館。地上6階建てで、それほど高い建物がない田老ではシンボルになるような建物だ。
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 震災前の姿を残す写真。
 このたろう観光ホテルは東日本大震災の震災遺構の保存に、初めて国費が投入された物件である。
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 震災による津波で1階から2階部分の壁などは全て抜け落ちて、鉄骨だけの状態になっている。


津波は全てを押し流す

 この6階建ての建物を見上げる。
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 見上げると3階部分の窓がない。
 2階の天井ですら高いのだ。高さ17mにもなる津波がここに来たのだ。2階だけでなく、3階も壁の一部が破壊されて、窓ガラスがなくなっている。
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 東側に回ると3階部分の壁が大きくなくなっている。
 おそらくこちらの方向から波が入ってきたのだろう。
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 ものすごい勢いで流れた津波は全てを押し流した。
 エレベーターの籠もかなりの力で押されたせいかひしゃげてしまっている。
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 1階部分で残っているのは鉄骨と階段、エレベーターの籠と枠だけだ。もちろん全てを押し流した結果、ここには大量の瓦礫が山積みとなった。いまではきれいに撤去されている。
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 震災によって地殻変動が起きて、2.18m動いたことを示す看板。一等登記基準点がここにあったが、2.18m東南方向に移動し、高さは0.31m下がった。震災により大きく地殻変動が起きた。あまり気づいていないけど、震災とその後の地殻変動で東京でも数cmから数十cm単位で動いている。
 残念なことに元の位置と新しい位置の写真を撮り忘れてしまった。

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内部見学ができる

 このたろう観光ホテルの特徴として、内部が見学できる。
DSC09872
 ただし、予約する必要がある。詳細はホームページで確認して欲しい。

 年に何回か(一度だけ?)、無料見学日があるので、それに参加してみた。
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 内部の見学はこの外にある非常階段を上がる。
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 もちろん修復されているが、被害を受けた階段を上がる。
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 客室の畳は剥がされていたが、テレビや冷蔵庫、金庫などはそのまま置かれていた。
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 こう見ると何も影響が無かったように見える。
 それは高いところだったからであって、下は地獄である。
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 エレベーターも至って普通だ。
 まぁ、内部見学しても被害に遭ってない部分を見ても仕方がないっちゃー仕方がないのだけど、階段を上がっていくときにこの高さまで津波が来たと思うと、恐ろしさをイヤというぐらい実感できる。
 内部では震災当時の津波が来ているところの映像が流されており、その場で津波が来たときと平常時の違いが実感できるようになっている。この映像は撮影禁止なので、ここに来て見るしかない。
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 三陸地方は、地震が来れば津波に何度も襲われてきた。津波に対する防災意識は高い方だったと言える。このような張り紙もなされていた。小さい頃からそういった教育を受けてきたはずなのだけど、あれだけ多くの犠牲者がでてしまった。津波に対する防災意識はいくらあっても足りない。


近くにあるJFたろう製氷貯氷施設

 近くの港には漁協の製氷貯氷施設がある。
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 ここには明治、昭和、平成の各津波の高さが書かれている。
 昭和三陸津波が10m、明治三陸津波が15m、平成の東日本大震災津波が17.3m。
 これだけの高さで津波はやってくる。勢いをつけてやってくる。しかもそれは波が高いのとは確実に違う。海面が上昇して押し寄せるのだ。その津波の前で人間は無力である。とにかく、逃げるしかない。一刻も早く、高いところへ。心配になって戻ってはいけない。きっと逃げているはずだ。そう信じて、逃げるしかない。


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 かつて原子力発電所が稼働していた町には、時が止まった回転寿司屋がある。


福島第二原発がある町

 福島県双葉郡富岡町。
 福島第二原子力発電所がある町。
 そして、福島第一原子力発電所事故による帰還困難区域の南端の町。
 現在は、東京電力福島復興本社がある。
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 津波でやられた富岡駅も復旧し、新しい駅舎ができた。
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 少しずつ、復興していっていると言えるだろう。
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 放射線量もほぼ正常と言っていいレベル。

 富岡町は避難指示区域になっていたが、2017年4月1日より解除されて、再び人が住めるようになった。
 とはいえ、町の人口(住民票登録数)は2019年8月末時点で12,865人に対し、実際に住んでいるのは1,107人。まだ10%にも満たない人々しか戻ってきていない状況である。復興への道のりはまだまだ長い。


そこには2011年の3月があった

 一時期警戒区域となって立ち入りが制限されていた富岡町。現在は一部区域を除いてそういった制限は解除されている。帰ってきた人々に店がなかったら困るということで、富岡町が設置したさくらモール(スーパー、ドラッグストア、ホームセンターが入居)の向かいには回転寿司屋がある……いや、あった。
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 「回転寿司アトム」と、このご時世で聞くとなかなかシュールな名前になってしまった。おそらく、原子力発電所が近くに立地していることから付けた名前なのだろう。もっとも、それは深く考えて付けられた名前ではないのかもしれない。震災直後の週刊誌にはこの店が原子力ムラの象徴などと書かれた。
 店の駐車場は現在富岡町交流サロンの駐車場になっている。この交流サロンとは帰宅困難区域に一時帰宅する場合や、遠隔地に避難した人々が帰省する際の休憩所として使えるようにしている施設である。
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 駐車場は活用されており、建物に囲いがあるわけではないので、ただの一時閉店しているようにも見える。ただ、窓から中を覗いてみると、店の中は2011年3月11日で止まっていた。
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 テーブルの上の醤油差しもそのままの状態。
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 値札を見ると、当然、消費税は5%だ。
 いくら何でも震災から8年も経てば片付けることはいくらでもできたはずなのに、ほぼそのままの状態で残っているのが生々しい。
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 窓側の(たぶん)水のサーバーに入っている水は緑色に変色し、実はお茶が入っていたんじゃないかと一瞬思った。それだけの長い年月が流れている。

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いつまであるかわからない

 この店の主は現在いわき市で焼き鳥屋を営んでいるという。
 このお店については2018年2月に取り壊すという意向が示されていたが、訪問した2019年2月現在ではまだ残っていた。とはいえ、行政が関わらず民間所有である上に、震災遺構として残す意向も示されていないので、いつまで残っているかわからない。もしかしたら取り壊されているかもしれない。
 原子力発電所事故は、ある日突然そこから去らなくてはいけなくなる。そこには生活していたそのままの状態で、何年も戻れなくなることがある。そのことを実感する場所であることは間違いない。


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 震災遺構が数多く残る、陸前高田市。
 新しい施設がオープンしたので、行ってみた。


高田松原津波復興祈念公園が一部オープン

 2019年9月22日。釜石で開かれるラグビーワールドカップに合わせるように、陸前高田市に高田松原津波復興祈念公園が一部オープンした。この施設は以下の施設から構成される。
 ・道の駅高田松原
 ・岩手県東日本大震災津波伝承館(いわてTSUNAMIメモリアル)
 ・高田松原国営追悼・祈念施設
 ・震災遺構「奇跡の一本松」
 ・震災遺構「陸前高田ユースホステル」
 ・震災遺構「道の駅高田松原タピック45」
 ・震災遺構「下宿定住促進住宅」
 ・震災遺構「気仙中学校」
 これらの施設が集結しており、東日本大震災における津波被害を学ぶ場としても最大の施設となる。
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 というわけで、早速行ってきたよ。


道の駅・高田松原

 震災によって道の駅高田松原タピック45が被災し、その後営業休止中となっていた道の駅高田松原が約8年半ぶりにオープンした。
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 津波復興祈念施設を兼ねているため、モノトーンな建物。
 かなりでかく感じるが奥行きがないためそれほど大きい施設というわけではない。
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 鳥取のすなば珈琲が出店してた。
 公式ホームページでは一切存在が書いてないが、たぶん本物だろう。鳥取県知事のお花もあったし。
 内部は所謂普通の道の駅と同じ地場産品販売とレストランなどなど。
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 天丼食べた。
 まぁ、普通。

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岩手県東日本大震災津波伝承館(いわてTSUNAMIメモリアル)

 道の駅高田松原と同じ建物に岩手県東日本大震災津波伝承館(いわてTSUNAMIメモリアル)がある。
 岩手県が設置した震災伝承施設である。
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 陸前高田市にあった旧・気仙大橋の橋桁が展示されている。
 気仙川河口から500mの地点にかかっていた気仙大橋だが、津波によって橋桁が流された。
 津波の威力により橋桁は折れ曲がり、307m上流に流された。重さは2.5t。これほどの重さのものでも、津波は流していく、その威力はすさまじい。津波はそのまま気仙川を8kmも遡って、山間の集落にも被害を与えた。
 この気仙大橋は国道45号線の橋で、この橋が流されたことによって仮橋が開通するまでの4ヶ月間、かなり上流まで行かないと川を渡ることができず、迂回を強いられた。
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 こちらは津波によって流された田野畑村消防団の消防車。
 津波にのみ込まれ山際まで押し流された。乗車していた消防団員は奇跡的に無事だった。
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 津波で被害に遭った看板などが展示されている。
 他にも国土交通省の国道啓開作業である櫛の歯作戦についての展示、東北地方整備局のオペレーションルームの再現施設などがあった。
 基本的には映像資料多めなので、震災遺構と呼ばれるものは少ないが、それらは外にたくさんある。
 特に、消防団、漁業無線局、地元建設業者、自衛隊、後方支援活動、消防、警察の果たした役割などがまとめられており、初めて知った情報も多かった。
 特に漁業無線局では本来地上同士の交信は違法だが、連絡が通じない中で千葉茨城の陸上局を経由して岩手県庁に避難者情報などを伝えた話は初めて知った。
 地元民の意向が無視されて決められた展示施設と地元の方は言っているらしい。ただ、この施設は「岩手県の」施設だ。広く被害を受けた岩手県全体を網羅した展示にしなければならないだろう。そういった意味で、陸前高田のことを残すのであれば、陸前高田市が主導となった施設を整備する必要があるだろう。


奇跡の一本松と陸前高田ユースホステルと太平洋

 道の駅と津波伝承館の裏側には海へ向かって道が続く。
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 大きな大きな太平洋に向かって。
 突然津波という牙をむいた太平洋に向かって。
 多くの人やものを飲み込んだ太平洋に向かって。
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 海岸では松原の再生事業が始まっていた。
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 振り返ると陸前高田の街が見える。
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 そこから遊歩道で陸前高田ユースホステル跡地に行くことができる。
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 そして、その傍らには奇跡の一本松がある。
 奇跡の一本松については以前の記事を参照して欲しい。



旧・道の駅「高田松原タピック45」

 被災した道の駅は現在整備工事中。
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 特徴的な建物を裏から見るとこんな感じ。
 津波エネルギーを分散させることを考えてこの形になったらしい。
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 これから整備されて公開される予定。

 このほか、震災遺構施設は「気仙中学校」「下宿定住促進住宅」などあるが、現在整備中。今後、整備が終われば様々な震災遺構施設を見ることができ、震災学習の一大拠点となる。今回のオープンは陸前高田の震災復興において一つのマイルストーンになったのではないだろうか。


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旧・米沢商会ビル

 そういえば以前紹介した米沢商会ビルのその後が気になったので行ってみた。

 JRBRT陸前高田駅に行ってみると、同じ場所にそのビルは建っていた。
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 周りはかさ上げによって高くなったため、中国の立ち退きに反対しているビルみたいになっている。
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 これ、雨水とかたまらずにちゃんと流れていくのだろうか。
 公的支援が入らず、民間によって保存されているだけに今後が心配だ。


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 震災遺構が数多く残る陸前高田市。
 後編は大物登場でございます。


旧・気仙中学校

 「気仙中学校前」というバス停で降りる。
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 周囲に民家はなく、乗降する客は限りなく0に近いと思われる。
 もちろん、震災前には周りに民家があったらしい。「あったらしい」としか書けないほど周りは復興事業によって工事されており、震災後の航空写真でも、全て流されてしまっているのがわかる。
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 3階建ての校舎の窓は全て破壊されている。それだけの津波が襲ったのだ。
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 津波の高さは14.2m。校舎の屋上の高さすら超えている。
 これでは、屋上に避難していたとしても助からない。50cmの津波でも成人男性の80%が流されるのだ。
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 気仙川の河口に位置する気仙中学校は教職員の機転により命が失われることはなかった。
 気仙川の水が引いて、川底が見えたことで津波が来ることを確信し、避難を開始した。最終的には4カ所ほど場所を変えながら、上へ上へと避難した。
 もし校庭に避難していたら、もし屋上に逃げていたら、全員が無事ということにはならなかったかもしれない。津波の際にはとにかく高いところへ逃げること、それしかない。


旧・道の駅高田松原

 陸前高田市の海岸沿いには道の駅高田松原があった。岩手県内で最初に認定された道の駅だった。
 震災によって、道の駅どころか名前に入っている松原自体も津波によってなくなってしまった。
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 訪れたときは近寄ることもできなかった。
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 一見普通に建っているように見えなくもないけれど、やはり破壊されている。
 この特徴的な形の建物は津波避難施設としての役割も併せ持っていた。海側からの登りやすさなどを考慮して三角形の特徴的な外観をしている。
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 内部はめちゃくちゃに破壊されており、鉄骨なども「ぐにゃり」と曲がってしまっている。ものすごい力だ。
 津波によって建物の上部をわずかに残して水没した。なんとか3人が屋根裏まで逃げて難を逃れることができた。水位がどんどん上がってくることに、恐怖を感じたことだろう。
 道の駅高田松原はついに2019年9月22日に移転再オープン予定。
 この旧道の駅は震災遺構として保存される。

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旧・米沢商会ビル

 JR大船渡線陸前高田駅は、BRTの駅としてかさ上げされた新市街がある高台にオープンしている。
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 バスの駅だけど、みどりの窓口もある。
 新しいバスの駅から海側を見渡すと、ビルが1棟残っているのが見える。
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 ただ、ぽつんと残るビル。
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 これが旧米沢商会ビル。
 周囲がかさ上げして土の下埋まっていく中、ここだけは元の高さが残っていることがわかる。
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 津波によって窓は全て無くなっている。
 それでも耐震性には問題がないとのこと。頑丈に作られた建物は津波に耐えた。
 そして、この建物の保存に公費は使われておらず、所有者の負担によって保存することとなった。
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 屋上の上、ほんのわずかだけ高くなっている部分、そこの部分まで津波が押し寄せた。
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 まさにギリギリである。
 米沢商会の店主でビルの所有者はここで津波から逃れ、助かった。
 1m四方の一人分のスペースしかない。津波が襲ったとき、見渡す限りあたり一面は水で覆われていたはずだ。そこで見た光景はどんなものだっただろうか。これ以上、水位が増すのか、次の波が来たときはどうなるのか。想像するだけで恐ろしい。


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 東日本大震災で多くの犠牲者が出た陸前高田市。
 その数は石巻市に次いで多く、実に1,757名にもなる。


街が壊滅した陸前高田

 アナウンサーが読み上げるニュースで耳を疑うことというのは、それほどないと思う。自分の記憶の中でそれほどない耳を疑うニュースがどんどん飛び出していたのが、震災直後のニュースだった。特に印象に残っているのは「消防庁の発表によりますと、岩手県陸前高田市はほぼ壊滅状態とのことです」「JR仙石線は2本の電車の行方がわからなくなっています」の二つ。言ってる意味が分からないと最初思ったものだった。
 そんな陸前高田市には震災遺構が数多く残っている。
 陸前高田の震災遺構は奇跡の一本松だけじゃない。


奇跡の一本松と陸前高田ユースホステル

 震災前、陸前高田の海岸には松林が広がっており、その中に陸前高田ユースホステルがあった。
 松林はすべて津波によって流出したが、そのうち1本だけ流されずに奇跡的に耐えた。
 それが有名な奇跡の一本松である。
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 残念ながら奇跡の一本松は塩害により枯れてしまったが、科学の力を惜しみなく投入しサイボーグ化(というより剥製に近いか)してなんとか今ここに立っている。ちなみに、その作業の際に取り払われた枝から陸前高田市の市長印が作られている。
 震災直後に多額のお金をかけて、いま奇跡の一本松はここに立っている。もちろん、このお金を被災者に回した方がいいのではないかと批判があった。被災者自身もそういう意見が多かったし、全国の人もそう思っていた人が多くいた。自分もそう思っていた。でも、今になって思えば、この奇跡の一本松があることで、救われた気持ちもあったんではないかと思うし、(文字通り)一つの柱になるものがあるというのはいいことなのではないかと思う。
 今後はユースホステルの建物やその他周辺一帯を復興公園として整備される予定。

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旧・下宿定住促進住宅

 奇跡の一本松から国道45号線を大船渡方向に向かうと、マンションが残っている。
 旧・下宿定住促進住宅だ。
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 この5階建ての共同住宅を津波が襲った。
 側面をよく見てみると津波到達位置を示す看板が見える。
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 14.5m。この街を襲った津波の高さだ。
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 この写真を見てもらえばわかるとおり、4階までめちゃくちゃになっている。
 では、5階は安全だったかというと、浸水してる。なので、安全だったのは屋上に上がった場合だけだった。


旧・大船渡線踏切

 国道45号線から横の道に入ると、かさ上げ工事が行われている中に踏切が残っていた。
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 この踏切の部分だけ線路が残っている。もしかしたら、もうないかもしれない。
 大船渡線は津波により大きな被害を受け、この区間はバスによる復旧となっている。もう、ここに列車が走ることはない。周囲がかさ上げされてもここだけ残っているのが不思議である。


ガソリンスタンドの看板

 道の駅陸前高田跡地(次回紹介)の向かい側にガソリンスタンドがあった。
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 私が行ったときには元々国道45号線沿いにあったガソリンスタンドは道がつけ変わったことによって、このときは脇道の行き止まりにガソリンスタンドがあった。
 高いところにある看板のてっぺんにまで津波が到達していたことを示している。
 残念ながら今はこの場所にガソリンスタンドはない。かさ上げ工事の支障となるために移転したのだ。
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 看板は新店舗に移設された。岩手県の屋外広告条例により元の高さにすることはできなかったため、低い位置になってしまった。ただ、この大きさと色は例外的に認められたらしい。


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 東日本大震災で津波により大きな被害を受けた仙台空港。
 米軍の協力により、驚異的な早さで復旧し、「トモダチ作戦」の拠点となった仙台空港。
 そこから歩いて行けるところに、災害遺構がある。


岩沼市沿岸の津波避難場所整備

 宮城県岩沼市の沿岸は津波被害を受けた地域である。元々、いくつか集落があったが災害危険区域に指定されたこともあって、集団移転を余儀なくされた。その跡地に震災で岩沼市で発生した瓦礫の9割を使用して、津波避難施設が作られた。
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 これらの津波避難施設は「千年希望の丘」と名付けられて、6つの公園とそれを結ぶ園路で構成されている。今回は、そのうちの災害遺構としても保存されている公園を紹介する。


空港から歩ける相野釜公園の災害遺構

 仙台空港から歩くこと徒歩20分。ちょっと歩くにはしんどいか。
 歩けなくはないところにある、千年希望の丘中心施設となる相野釜公園。
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 駐車場に車を止めるとまず目に入ってくるのは倒れた火の見櫓だ。特に説明書きもなく、ただただ倒れたままに 置かれてる。
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 そのまま奥に進むと、家の基礎だけが残っているゾーンに入る。広々とした園内から想像できないけれど、ここには家々があった。
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 今では、基礎だけになっている家が悲しさを増幅させる。ここに家があった人は、これを見てどう思うか。ひと思いに壊してしまいたい、そんな思いを持つこともあるかもしれない。
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 古い家はトイレが基礎と直結しているせいか、だいたいトイレの便器も残っている。今まで見た震災遺構に共通する特徴。この知識役に立たないけどね。
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 繰り返すけど、確かにここには家があって、集落があって、136世帯417人の人々が暮らしていた。そして、東日本大震災の津波によって全ての家が被害に遭って、今はこの地域一帯が第一種災害危険区域に指定されている。第一種災害危険区域内では一切の住居を建てることができない。つまり、この地域に住んでいた人は皆この土地から離れることを余儀なくされた。こういったことは岩沼市に限らず、東北沿岸のどこの市町村でも発生している。

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相野釜公園の津波避難施設

 相野釜公園の中には津波避難施設となる丘が2つある。
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 岩沼市としては、津波多重防御として、防潮堤・千年希望の丘・貞山堀の護岸・かさ上げ道路(玉浦希望ライン)の4種類を整備し、津波から防御あるいは威力を弱めることにより、避難する時間を作るという津波対策をしている。海岸から山が近くにないということもあって、そのような対策になっているようだ。リアス式海岸では山が近くにあるけれど、その分津波の遡上高が上がり威力も増す一方で、平野部であれば遡上高はそれほどでもないけれど避難する場所がないということなので、避難施設を作ることが有効となる。
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 2号丘からは仙台空港がよく見える。ちなみに仙台空港至近には名取市北釜防災公園という同じコンセプトで作られた津波避難施設があり、そちらの方が飛行機の離発着はよく見える。
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 名取市側には一軒だけ残っている家があった。 
 この家はどうするのだろうか。


石蔵が残る二野倉公園

 回りがソーラー発電所だらけの二野倉公園。
 そこに一軒の石蔵が残っている。当然、ここにも集落はあったのだ。
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 このあたりの津波浸水深は5.1m。住宅の2階まで達するような高さまで津波が来ているにもかかわらず、この石蔵はなんとか耐え抜いた。回りの木造の家は流れるか、壁が破壊されて柱だけの状況になっているにもかかわらずである。
 さすが、石蔵と言わざるえない。さすがに、この頑丈さで全ての建物を作るのは無理だけれど。


生き残った大銀杏がある長谷釜公園

 さらに南下をしていく。
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 長谷釜公園の中には神社が残っている。正確にはここは公園内ではないかもしれないけれど。
 その中でひときわ目に付くのが大銀杏だ。高さ18m、樹齢約300年以上。この大銀杏は津波に耐えた。おそらく、何回もの津波を経験して耐えてきた。
 この銀杏は今でも生きている。写真は冬の写真なのでわかりにくいが、春には新芽が芽吹き、秋には黄色く葉を染める。幾度となく、襲われた津波に耐えたのだ。そして、これからも耐えるのだろう。


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