東日本大震災で津波により大きな被害を受けた仙台空港。
米軍の協力により、驚異的な早さで復旧し、「トモダチ作戦」の拠点となった仙台空港。
そこから歩いて行けるところに、災害遺構がある。
宮城県岩沼市の沿岸は津波被害を受けた地域である。元々、いくつか集落があったが災害危険区域に指定されたこともあって、集団移転を余儀なくされた。その跡地に震災で岩沼市で発生した瓦礫の9割を使用して、津波避難施設が作られた。
これらの津波避難施設は「千年希望の丘」と名付けられて、6つの公園とそれを結ぶ園路で構成されている。今回は、そのうちの災害遺構としても保存されている公園を紹介する。
仙台空港から歩くこと徒歩20分。ちょっと歩くにはしんどいか。
歩けなくはないところにある、千年希望の丘中心施設となる相野釜公園。
駐車場に車を止めるとまず目に入ってくるのは倒れた火の見櫓だ。特に説明書きもなく、ただただ倒れたままに 置かれてる。
そのまま奥に進むと、家の基礎だけが残っているゾーンに入る。広々とした園内から想像できないけれど、ここには家々があった。
今では、基礎だけになっている家が悲しさを増幅させる。ここに家があった人は、これを見てどう思うか。ひと思いに壊してしまいたい、そんな思いを持つこともあるかもしれない。
古い家はトイレが基礎と直結しているせいか、だいたいトイレの便器も残っている。今まで見た震災遺構に共通する特徴。この知識役に立たないけどね。
繰り返すけど、確かにここには家があって、集落があって、136世帯417人の人々が暮らしていた。そして、東日本大震災の津波によって全ての家が被害に遭って、今はこの地域一帯が第一種災害危険区域に指定されている。第一種災害危険区域内では一切の住居を建てることができない。つまり、この地域に住んでいた人は皆この土地から離れることを余儀なくされた。こういったことは岩沼市に限らず、東北沿岸のどこの市町村でも発生している。
相野釜公園の中には津波避難施設となる丘が2つある。
岩沼市としては、津波多重防御として、防潮堤・千年希望の丘・貞山堀の護岸・かさ上げ道路(玉浦希望ライン)の4種類を整備し、津波から防御あるいは威力を弱めることにより、避難する時間を作るという津波対策をしている。海岸から山が近くにないということもあって、そのような対策になっているようだ。リアス式海岸では山が近くにあるけれど、その分津波の遡上高が上がり威力も増す一方で、平野部であれば遡上高はそれほどでもないけれど避難する場所がないということなので、避難施設を作ることが有効となる。
2号丘からは仙台空港がよく見える。ちなみに仙台空港至近には名取市北釜防災公園という同じコンセプトで作られた津波避難施設があり、そちらの方が飛行機の離発着はよく見える。
名取市側には一軒だけ残っている家があった。
この家はどうするのだろうか。
回りがソーラー発電所だらけの二野倉公園。
そこに一軒の石蔵が残っている。当然、ここにも集落はあったのだ。
このあたりの津波浸水深は5.1m。住宅の2階まで達するような高さまで津波が来ているにもかかわらず、この石蔵はなんとか耐え抜いた。回りの木造の家は流れるか、壁が破壊されて柱だけの状況になっているにもかかわらずである。
さすが、石蔵と言わざるえない。さすがに、この頑丈さで全ての建物を作るのは無理だけれど。
さらに南下をしていく。
長谷釜公園の中には神社が残っている。正確にはここは公園内ではないかもしれないけれど。
その中でひときわ目に付くのが大銀杏だ。高さ18m、樹齢約300年以上。この大銀杏は津波に耐えた。おそらく、何回もの津波を経験して耐えてきた。
この銀杏は今でも生きている。写真は冬の写真なのでわかりにくいが、春には新芽が芽吹き、秋には黄色く葉を染める。幾度となく、襲われた津波に耐えたのだ。そして、これからも耐えるのだろう。
米軍の協力により、驚異的な早さで復旧し、「トモダチ作戦」の拠点となった仙台空港。
そこから歩いて行けるところに、災害遺構がある。
岩沼市沿岸の津波避難場所整備
宮城県岩沼市の沿岸は津波被害を受けた地域である。元々、いくつか集落があったが災害危険区域に指定されたこともあって、集団移転を余儀なくされた。その跡地に震災で岩沼市で発生した瓦礫の9割を使用して、津波避難施設が作られた。
これらの津波避難施設は「千年希望の丘」と名付けられて、6つの公園とそれを結ぶ園路で構成されている。今回は、そのうちの災害遺構としても保存されている公園を紹介する。
空港から歩ける相野釜公園の災害遺構
仙台空港から歩くこと徒歩20分。ちょっと歩くにはしんどいか。
歩けなくはないところにある、千年希望の丘中心施設となる相野釜公園。
駐車場に車を止めるとまず目に入ってくるのは倒れた火の見櫓だ。特に説明書きもなく、ただただ倒れたままに 置かれてる。
そのまま奥に進むと、家の基礎だけが残っているゾーンに入る。広々とした園内から想像できないけれど、ここには家々があった。
今では、基礎だけになっている家が悲しさを増幅させる。ここに家があった人は、これを見てどう思うか。ひと思いに壊してしまいたい、そんな思いを持つこともあるかもしれない。
古い家はトイレが基礎と直結しているせいか、だいたいトイレの便器も残っている。今まで見た震災遺構に共通する特徴。この知識役に立たないけどね。
繰り返すけど、確かにここには家があって、集落があって、136世帯417人の人々が暮らしていた。そして、東日本大震災の津波によって全ての家が被害に遭って、今はこの地域一帯が第一種災害危険区域に指定されている。第一種災害危険区域内では一切の住居を建てることができない。つまり、この地域に住んでいた人は皆この土地から離れることを余儀なくされた。こういったことは岩沼市に限らず、東北沿岸のどこの市町村でも発生している。
相野釜公園の津波避難施設
相野釜公園の中には津波避難施設となる丘が2つある。
岩沼市としては、津波多重防御として、防潮堤・千年希望の丘・貞山堀の護岸・かさ上げ道路(玉浦希望ライン)の4種類を整備し、津波から防御あるいは威力を弱めることにより、避難する時間を作るという津波対策をしている。海岸から山が近くにないということもあって、そのような対策になっているようだ。リアス式海岸では山が近くにあるけれど、その分津波の遡上高が上がり威力も増す一方で、平野部であれば遡上高はそれほどでもないけれど避難する場所がないということなので、避難施設を作ることが有効となる。
2号丘からは仙台空港がよく見える。ちなみに仙台空港至近には名取市北釜防災公園という同じコンセプトで作られた津波避難施設があり、そちらの方が飛行機の離発着はよく見える。
名取市側には一軒だけ残っている家があった。
この家はどうするのだろうか。
石蔵が残る二野倉公園
回りがソーラー発電所だらけの二野倉公園。
そこに一軒の石蔵が残っている。当然、ここにも集落はあったのだ。
このあたりの津波浸水深は5.1m。住宅の2階まで達するような高さまで津波が来ているにもかかわらず、この石蔵はなんとか耐え抜いた。回りの木造の家は流れるか、壁が破壊されて柱だけの状況になっているにもかかわらずである。
さすが、石蔵と言わざるえない。さすがに、この頑丈さで全ての建物を作るのは無理だけれど。
生き残った大銀杏がある長谷釜公園
さらに南下をしていく。
長谷釜公園の中には神社が残っている。正確にはここは公園内ではないかもしれないけれど。
その中でひときわ目に付くのが大銀杏だ。高さ18m、樹齢約300年以上。この大銀杏は津波に耐えた。おそらく、何回もの津波を経験して耐えてきた。
この銀杏は今でも生きている。写真は冬の写真なのでわかりにくいが、春には新芽が芽吹き、秋には黄色く葉を染める。幾度となく、襲われた津波に耐えたのだ。そして、これからも耐えるのだろう。
コメント